短編集20(過去作品)
まさしく鬱状態への入り口を感じた。色を感じてくると、その色に匂いを感じるようになれば鬱状態の入り口で、
――匂いを感じたくない――
と思ってみてもそれは無駄な努力だった。
私はさおりのことを親友には話していた。少しきわどいことまで話しているかも知れない。そのことをさおりは知っていたような気がする。一度それについて喧嘩をしたことがある。
「私は誰にも話ししていないのに、あなただけどうして人に話すの?」
「そんな約束はしてないぞ。別に変なことを話しているわけじゃないから、いいじゃないか」
普段なら穏やかに話すのだろうが、売り言葉に買い言葉である。
「変な話なんてされたらたまらないわよ。でもいったい変な話って何よ?」
一瞬言葉に困ってしまった。さおりとはその後も何度も身体を重ねていた。身体の相性的にはピッタリだとお互いに思っていたからである。初めての夜にそれを感じ、さらに目が覚めてから、さおりの性格的な部分を好きになった。
しかし、その喧嘩が元だったのか、それから私は鬱状態に陥ってしまった。喧嘩にしても元々本意ではなかった。完全に売り言葉に買い言葉、
――これくらいのことでは、喧嘩になることはないだろう――
という甘い考えだったようだ。それから少しなじりあいが続いたのだろうが、一旦振り上げた鉈を下ろすというのは難しいもので、お互いに意地にもなっていただろう。
さおりと会う回数も減っていった。
最初は会えないことが苦痛で、何とか向こうから連絡がないかとやきもきしていたが、それも鬱状態が来ることを感じてくるとそれもなくなった。
足が攣った時に痛いにもかかわらず、何とか声を抑えて我慢しようと感じたことがあるのは私だけではあるまい。
「お願いだから、触らないでくれ」
と口に出したくなる。触られると余計に緊張してしまって治りかけていても、さらに硬直が続いたりする。それが強くなると気にされること自体が苦痛で、なるべく悟られたくないようにしようと思うのだ。
――なぜそんな気持ちになるのだろう――
思うに、足が攣る時も鬱状態と同じなのである。なりかかる時も何となく自分で分かるし、収まり掛ける時も分かるのだ。
また鬱状態というのは、人とのかかわりを一切自分で否定したくなる。普段は自分の知り合いでなくとも笑顔を示している人に対して親近感が湧き、知らない人にでも気軽に声をかけるタイプである。
「おはようございます」
この一言が持つ意味は、相手にだけではなく、自分に対して返ってきた笑顔に自然に自分の顔が綻んでいくのを感じることができることだ。顔の筋肉も、時々表情を変えることで程よい心地よさを頭に送ることができるのだ。気持ち的に余裕ができるというものである。
私は鬱状態に陥ると、時々前後不覚に陥る時があるらしい。
「まるで発作のようだな」
今までに大したことも起こらなかったことで事なきを得てきたようだが、自分でも怖いというのが正直な気持ちだ。
「お前は何を言い出すか分からないからな」
と何度も言われたことを思い出した。
その発作が出たのだろうか。鬱状態を抜けた時には私の前から完全にさおりはいなくなっていた。存在自体がもう私の前からいなくなっていたのである。あれだけ鬱状態に入る前に会って話をしたかったという思いは、もうすでにない。さっぱりしたような心境でさえいる自分が信じられないくらいである。
敢えて私はさおりを求めようとしない。確かに誰か、特に女性がそばにいないととても寂しい。特に鬱状態を受けたあとというのは人恋しいものだ。それはやがてやってくる躁状態になる時にできる心の余裕とはまた違ったものだ。本当の躁状態の時には、自然とまわりに人や女性が寄ってくる。自分の中から余裕というオーラが発散され、それが女性を引き寄せるフェロモンのようなものだと自分では思っていた。
それにしても本当にさおりのことが気にならなかったのだろうか?
普通に付き合い始めに感じていた時間の短かったことは、今から考えても分かる気がする。しかしそれはその時々の気持ちを思い出して頭の中で結び付けているからで、漠然と思い出そうとすると実に短かったような気がしてならない。時間の感覚というものは得てしてそういうものではないだろうか。
雪国に来てそのことを時々思い出す。未練があるというわけではないのだろうが、夢を見るとすればさおりの夢を見ていることが多い。しかも目が覚めてから漠然と、
――さおりの夢だ――
と思い、そう感じ意識がハッキリしてくるのと反対に本来なら忘れていくのだろうが、ジワジワとさおりとのことを思い出してくるのが不思議だった。
やがてやってきた躁状態。さおりの存在いかんにかかわらず鬱状態の後には必ずやってくるものだ。いつものように鬱状態の時のことは忘れている。痛みも苦しみも寂しさも、躁状態は私の心から一掃してくれるようだ。
ちょうどそんな時だったに違いない。会社から雪国への転勤を言い渡された私は、それほど苦痛に感じなかった。一、二年程度の辛抱だと会社からも言われていたし、独身の間にいろいろ動くことは最初から覚悟の上だったからである。
転勤になって最初に入った社宅の部屋、まだ荷物が届いていなかった真っ暗な部屋、扉を開けて覗いた時のことを今さらながらに思い出すことができる。
寒くもなく暑くもない時期だった。しかし、表にはまだ少し雪が残っているようで、初めて見る雪国の雪というものにしばし見とれていた。都会で見る雪とは若干違う。白さをやたらと強調したように見える都会の雪にくらべ、少し暗めである。都会の雪は起伏があっても影を感じないが、田舎の雪にはハッキリとした影の起伏を感じるのはなぜだろう。
――見つめていて吸い込まれそうに感じるのはどちらの雪だろう?
田舎の雪をじっと見詰めていた。気がつけば雪の中に埋もれているものがどんなものなのかを想像している自分がいて、雪の白さが真っ赤に染まっているのが見える自分にハッとしてしまう。
別に都会の雪と田舎の雪を比べてそれがどうなるというのではないが、ここに転勤といわれた時に感じた何となくの胸騒ぎと、ホッとしたような複雑な気持ちが今さらながらに思い出せるからだ。
――まるで逃げ出したような感覚だな――
いくら一、二年とはいえ、都会を離れることへの悲しさは大きかったはずだ。しかも本社からのいわゆる「左遷」である。気持ちよく下って来れるわけもない。
社宅の部屋に入って最初に感じたのは、胸騒ぎが大きかった。その時も、
――前にもこんな暗い部屋を感じたことがあるな――
と思ったのだ。真っ暗で吸い込まれそうな奥の深さを感じ、そこはブラックホールのようである。風がないにもかかわらず感じているのは、何かに後ろから押されている気がしているからかも知れない。
「誰かいるのか?」
思わず叫びたい衝動に駆られた。口は完全に動いていたが、カラカラに乾いた喉の奥からは、声が出てくることはなかった。
確かに気配を感じる。いや気配というより匂いを感じる。まるで香水のような香り、懐かしさの中に淫靡なものを感じるのは、記憶のどこかに封印した香りだからだろうか。
作品名:短編集20(過去作品) 作家名:森本晃次