暁の獅子 黄昏の乙女
それでもその生活を続けながら、シルヴィーはレオニード王の為政を見据え続けてきたのだろう。
逃亡生活を続けていても、3年前は精一杯頑張っている様子だったのだが、ここ1年程は以前ほど真剣ではなくなりつつあった。
市民の希望を受け入れて生き恥を曝しても生き延びる事を受け入れたものの、その理由がなくなった事で生き延びようとする意欲が薄くなったように思う。
王女としてこの世に生を受け、本来なら身に付ける必要のなかった帝王学を学ばせられたシルヴィーには、王族として為すべき義務を放棄して尚生き続ける事は苦痛でしかないのだろう。
昨年、オーロの貴族階級の者達が偽物を『世継ぎのルネ王子』と偽って旗印にして、カストルに対する乱を企てた事も、シルヴィーが身を隠して生き続ける事に疑問を抱くきっかけになったのかも知れない。
シルヴィーの消息が不明である為に偽物を押し立ててカストルに反乱を企てようとする者が現れるのだ。そうして自分達の欲を満たす為に、漸く戦争の傷が癒えた領民に、迷惑を掛ける。
領民がカストルに虐げられる事態が起こらないようにする事だけを理由に落ち延びたシルヴィーにとって、カストルが領民に無理難題を向ける心配が要らない以上、無理に生き続ける理由はもうないのだ。
シルヴィー自身、レオニード王の花嫁選考会での暗殺計画が成功するなどとは思っていまい。
シルヴィーの目論見としては、花嫁選考会という華々しい場所で暗殺未遂が起これば、シルヴィーの身元が徹底的に調べられ白日の下に晒される事で、オーロの元貴族達が2度と旗印に出来る『世継ぎの王子』の存在が消える事だろう。シルヴィーはそれを見越しているに違いない。
街を見物していたシルヴィーが城へ行くと告げたのは、選考会まで残すところ3日となってからだった。
「ごゆっくりなお出ましでございますねぇ」
いっそ感心したような口調の宿の主人だったが、言葉の内容は嫌みたらしい。
「おいおい。それが折角の長逗留の客に対する物言いか?」
リオンが呆れたように言うのに、宿の主人は肩を竦めた。
この一行の主人が寛容で、この程度の物言いで腹を立てたりしない事はもう判っていたし、言い方は悪いが悪意は欠片もない。
シルヴィー達が宿に逗留していた7日ほどの間に、ヴェールを被った姫が最終審査に残れたらヴェールを外すと宣言した事は街の噂にまでなっていたし、噂の姫がこの宿に逗留している事も街では噂になっていたのだ。
お陰で連日、噂の姫を一目でも覗き見ようとする街の人間が押し掛けていた。
「噂の所為で、こちらにはご迷惑をお掛けしてしまいましたわね」
巷で噂の『ヴェールの姫』は、侍女と侍従が荷物を運ぶに任せながら優雅な仕草で小さく笑う。
「いえいえ、それほどでも……」
「迷惑どころか、ですよ。お嬢様」
宿の主人が恩着せがましく話を振ろうとするとリオンが空かさず割って入る。
「噂の姫を一目見ようと連日客が押し寄せるのを、ご主人はしっかりと食事を摂らせたりして稼ぎにしていたんですから」
リオンの暴露は事実で、噂の姫君を見ようと物見高い者が押し寄せるのを、主人はシルヴィーの留守を承知していながら誤魔化して、食事をさせて稼ぎにしていたのだ。
「お嬢様の噂はいい客寄せになっていた筈ですよ」
「それなら良かったこと。でもそれも、こちらのご主人の商魂が逞しいから唯のご迷惑にならなかっだけの事なのでしょう?」
「何を仰いますやら、お樹様」
エレンが呆れたように言う。
シルヴィーは教養や知識は高いようだが、市井の暮らし向きについてはあまり詳しくはないらしい。貴族の姫君なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、だからと言って市井の暮らしを知らないとも思えない様子が窺える事は多いのだ。シルヴィーは、庶民の暮らし向きがどの程度なのかは把握している節がある。
「その程度の商魂を持ち合わせていなかったら、とてもじゃありませんけど、『暁の都』で高級宿など経営していられるものじゃありませんわ」
貴族の姫らしい嗜みや教養はある様子なのに、不思議な姫だと思う。
尤も、お陰でそこいらの貴族の娘に仕えている侍女達のように、お嬢様が無理難題を吹っかけてくるような事もなく、気遣ってさえ貰えるという普通ならあり得ない恩恵を受けているのだとは、エレンも知っている。
「城中へ入る前に、市場で手に入れたい物があるからこちらは早々に失礼しましょう。お世話になりましたね、御主人」
宿の主人にじゃれつくエレンをいなして、シルヴィーがさっさと挨拶を済ませる。
「とんでもございません。お役に立ちませんで申し訳ありませんでした」
シルヴィーが寛容なのを良い事に軽口を叩いていた宿の主人も、最後には丁寧に挨拶を返した。
実際、貴族階級の出の娘にしては手の懸らない我儘一つ言わないお嬢様だったのだ。
庶民と違った事と言えば、精々噂の的になって好奇心旺盛な都の人間を集めてくれたくらいの事しかなかった。
それとても、宿の中に開いているレストランの売り上げに貢献したくらいで迷惑という事態を招いたわけではない。
「貴族のお姫様にしては珍しい娘さんでしたねぇ」
早朝に宿を立つ貴族のお姫様など聞いた事もない。
田舎貴族は庶民と大差のない暮らしをしているという話も聞くが、仮にも王妃候補に名乗りを上げた以上、都風の貴族の暮らしが出来ないようなお姫様では困るだろうに。
7日ほど宿を提供しただけの関わりでしかなかったが、ヴェールを被った姫に妙に愛着を感じる自分が不思議でならない宿の主人だった。
作品名:暁の獅子 黄昏の乙女 作家名:亜梨沙