暁の獅子 黄昏の乙女
選考会開催までの10日間。
都に住まう姫も地方から出てきた姫も、国外から出向いてきた姫も、こぞって城中に入ろうとしていたが、シルヴィーはすぐに城へ行こうとはしなかった。
リオンを伴にして、質素な身なりで街中へ出掛け、都の市民の暮らし振りや、道路や水路の造りなどを視察して回っていたのだ。
「お嬢様は変わったものを見て回られるんですね」
普通、王の花嫁候補になる為の選考会へ参加しようという身なら、一刻も早く城中に馴染み自分の派閥を作ろうとするものではないかと思う。
エレン自身は、宮中の処世術など身に付けてはいなかったが、祖母が話してくれた昔の主人は、上手に立ち回って派閥を作っていたそうだ。
「都の造りやそこで暮らす市民の暮らし向きを見れば、この国の中枢を担う方達の考えなどは概理解るものよ」
「は……あ……」
理解できず不思議そうな顔をしているエレンに、シルヴィーは小首を傾げる。
「王様がどんなに良い国にしようと思っていても、実際の仕事をしているのは、王様の下で働く大臣や役人でしょう?」
「それはそうでしょうけど、でも王様の命令というのは絶対なのではないんですか?」
「本来はそうでしょうけれど、もし王様が無能だったり、無茶ばかり言う王様だったりしたら、その下で働いている人達が優秀でないと国は潰れてしまうでしょう?」
「レオニード陛下は無能なんかじゃありません!」
「そんな事は当然でしょう?」
ムキになるエレンに、シルヴィーは何を興奮しているのかという表情をする。
「そういうことではないわ。逆もまた然り、という事よ。どんなに良い王様でも下で働く人達が王様の良い考えを反映させる気がなければ、折角の王様の考えは活きなくなってしまうものよ」
若くして賢帝と誉めそやされるレオニード王に対する評価が、家臣の力によるところが大きいのか、あくまでも実力なのかは、都で暮らす市民の噂や暮らし向きを見ていれば判るものなのだ、とシルヴィーは言う。
エレンには判らなかったが、年下の主人が田舎貴族の姫君にしては政に明るいのは確からしい。
「そんな事を調べて、どうなさるおつもりなんですか?」
「王妃に求められるものが何か、大凡の見当は付くわ」
「ええっ?」
まさかそんな事まで判るものなのだろうか。
エレンは半信半疑で年若い主人を見た。
主人を挟んで反対側に立つリオンは、シルヴィーとエレンの遣り取りを聞いてくすくす笑っている。
むっとして睨んだエレンに気付くと、リオンは肩を竦めて謝罪するような仕草をしたが、笑いは止まらないようだ。
リオンの笑いはエレンが理解出来ない事に対するものらしい。
つまりリオンにとってはシルヴィーの言葉は不思議でもなんでもないという事なのだろう。
オーブの都では、貧民街らしき地域が狭い。
貧民街といっても貧しいだけで、危険・不潔といった状態ではないようだ。
病気や怪我や加齢で働けない者が殆どで、働かない者が少ない。
仕事がない、という事態はないのだろうと思われる。
大きな都の隅から隅まで、人の手が入っている。
毎日、街頭には灯が灯り、馬車道に敷かれた石に罅が入っている所を見つけても、翌日には新しい石に入れ替えられている。
下水路に流れの悪い処はない。あまり匂いもしない。
街の交差点毎にある衛兵の詰め所に人がいない時間帯はない。
夜遅くまで開いている店は酒場ばかりではなく、だが夜遅くまで子供だけで動いている姿が見られる事もない。
安全で健全な街。
繁栄している都は人が多く集まるもので、トラブルがないというわけにはいかない。
都は夜こそ緊急事態でない限り出入り自由というわけではないが、外からの商人を広く受け入れている。それは国内外を問わずである。尤も、国外から入ってくる商人は、東西南北の広場で開かれている市に場所を取る事は出来ても街中で売り歩く自由はないらしい。
言葉が通じなくて、終いには喧嘩腰になったりしてもいるようだ。
広場での市を仕切っているのは街の顔役のようで、お仕着せを着た男や女が世話係をしているらしい。
あちこちで外国の言葉に堪能な者が通訳をして、トラブルを解決したり交渉したりして賃金を受け取っている。
「外国の言葉が話せると便利なんですねぇ」
「食うにも困らないな」
頻りに感心しているエレンの気を削ぐようにリオンの茶々が入る。
ムッとするエレンを涼しい顔で遣り過ごすリオンに、シルヴィーがくすくす笑う。
気の置けない仲間のように接するシルヴィーに、エレンはたった一人の侍女という責任に感じていた重圧をいつの間にか感じなくなっていった。
シルヴィーの作った口実で街に出ていくリオンが、都の道や構造を頭に入れている事に、エレンは気付いていなかった。
口実を作ってリオンとエレンを伴って街へ出るシルヴィーの意図を察していたリオンだが、都の構造を頭に入れているのは、自分の為ではない。
シルヴィーは、本来なら何の関係もないエレンを自分の事情に巻き込む事を良しとはしていない。エレンを逃がす為にリオンが共に逃げる事を望んでいるが、リオンにはその気はない。
3年前、父親や宰相と約束したように、最後まで主人と運命を共にする気だった。
そう、シルヴィーはオーロの世継ぎの王子として育てられたシルヴィー・ルネ・ド・オーロ。その人なのだ。
レオニード王の花嫁選考会に参加する為に身分を偽ってはいるが、性別を偽っているわけではない。
シルヴィーが性別を偽っていたのは、オーロの世継ぎの王子時代だ。
今は亡きシルヴィーの母は、近隣諸国に知られる美貌の持ち主だったが、体が弱かった為、シルヴィー一人しか産めなかった。王妃を熱愛していた王は側室を勧める周囲を躱す為に、唯一の子供を王子と偽って世継ぎの地位に据える事で周囲を黙らせたのだ。
王妃が亡くなり周囲が再婚を勧めたが、王は世継ぎの王子の存在を理由に再婚を躱し続けていた。王がシルヴィーに一生性別を偽らせるつもりだったのかどうかは知らない。だが、秘密を守る為にシルヴィーの体が弱い事にして、ドーン将軍の夫人であるリオンの母を乳母に付けて、人を寄せ付けないようにしていたくらいだ。シルヴィーを守る気持ちはあったのだろう。
或いは再婚しても良いという気持ちになるまでの時間稼ぎのつもりだったのかも知れない。それが思いの外『世継ぎの王子』が優秀であった為に、王に再婚を勧める声が小さくなっていき、引くに引けなくなったというところだろう。
今は亡きオーロの王の思惑が何であれ、落ち延びて身を偽って生きてきた事でシルヴィーが負った負担は、同道していたリオンが考えていた以上だったのかも知れない。
この3年、シルヴィーは息を潜めるようにして生きてきた。
城から落ち延びる際に宰相が持たせてくれた革袋の中身を少しずつ金に換えながら、シルヴィーは本来の性別の姿に身を窶して生活してきたし、リオンが隊商の警護を引き受けたり、シルヴィーの特技が外国語なので通訳をしたりして稼いでいた。お陰で、流れ歩く生活こそしていたが金に困る事はなかった。
作品名:暁の獅子 黄昏の乙女 作家名:亜梨沙