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東京人コンパ

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 そして僕は杏が僕の胸の中で泣いて、「人にこんなに優しくされるの生まれて初めて」と言った言葉を思い出した。
 しばらくの沈黙の後、また杏が、
「私いじめに遭ってたのよ。一生懸命明るくしようとしているだけ」
 その言葉に皆が耳を傾けた。
 鍾乳洞の中を優しく響き渡る声で幸久が、
「もし、嫌でなければ、そのいじめの話、僕達に聴かせてくれる?」
「そうね……」
 杏は顔を覆った後、顔を見せ、決心したように、
「私がいじめに遭ったきっかけは、携帯電話でラインのやり取りのことだったの。本当おかしな話よ。皆でいじめはよくない。でもいじめを放っておく皆もよくない。だからいじめられっ子の気持ちが分かるようになるため『死人ゲーム』をしよう。そんなおかしな話があったの。六人くらいの女子達の間での話よ」
「死人ゲーム?」
 忠信が訊ねるように言うと、
「そう『死人ゲーム』」毎週当番で『死人』を決めるの。みんなで話し合ってだけど。そして『死人』という当番になった人は一週間ずっとメールの間で『死人』という扱いを受けるの。ねえ。この時点でおかしいと思うでしょ。一年間ランダムで『死人ゲーム』が続いたわ。そして一年がたったとき、やはり私に『死人』の番が回ってきたの。その一週間は本当絶望的なのよ。学校に行くのも毎日苦痛だったわ。皆は会えば普通に口を利いてくれるけど、でもね。一週間たってやっと私の当番が終わると思ったら、また次の回も、私が『死人』なの。おかしいと思ったわ。今まで二回続けて同じ人が『死人』になることは一度もなかったから、それだけじゃないの。その次の週も、次の次の週もずっと私が『死人』の当番なの。いつも当番を皆で決めるっていうけど、結局仕切っている人がいるわけで、私には何も言う権限がなかったわ。」
 杏の声も俯く角度に何か優しい陰りのようなものがあった。
「そして高校二年のときから三年、そして卒業間際までずっと私は『死人』ということになっていた。でも皆、話掛ければ答えてくれるし、別に靴箱を開けたら上履きの中に画びょうが入っているということがあったわけではないの。でもね。何か会話をしていても私のときはいつも平たい会話というか、感情と感情がぶつかった会話のようなものがなく「うわべ」だけの付き合いのようになっていた。誰もそれが「うわべ」だと口にしないし、口にしないことが暗黙のルールにもなっていた。でも卒業式のことだったの。私はいつもより早く行って靴箱を開けたの。そうして上履きを取ろうとしたらどうなってたと思う?」
 そのときシュノーケルも渇いてしまうほど時間が経っていたし、どうやら鍾乳洞の中での時間の経ち方は、外界のそれとは違うようだ。僕達は時間を惜しまずに杏の問いに対して考えた。
 それでも分からなかったので話の続きを聴いた。
 杏はまた話した。
「上履きの中に大量の塩が入っているの。ぎっしりと。ある意味画びょうより残酷な仕打ちね。でもね。いじめにあっているとね。いろいろ頭の中が混乱して、自分がみじめになって、何かいじめられている自分も得体のしれない罪悪感を感じるの。何か申し訳ない感じがするの。そのとき打ち明ける友達もいなかった私は、この盛られた塩を何とかしなきゃ。私のせいでみんなの感動の卒業式を台無しにしたら、そんなことだけはしたくないって必死だったの。でも塩を学校の片隅にでもばらまいたら、どうしたんだと先生とかも心配するでしょ。私自身みんなにいじめられているという自覚を持ちたくないと思っていたし、何事もなくうわべの付き合いでも卒業できればと思っていたし」
「私は学校の校舎の裏に行ってスコップもないから必死で土を掘った。掘っても掘っても手で掘るものだから、硬い土はなかなか掘れなくて。誰かに知られたらいけない。知られたらいけないと必死に掘った。今でもあのときの土の硬さが感触として、手に残っているくらいだわ」
「必死になって土を掘り終え、塩を埋め、また土で覆って、これでよしと思った。でもどうしても爪の中の汚れを落とそうと思っても落ちないの。ただ卒業証書をもらう手が不自然に汚れていることだけは悟られたくないと思った。卒業式で女子達は泣いている子達がいたけど、私は少しも泣けなかった。感情というものがなくなっていた。平たい顔をして卒業式を終えた。青森の大学に行く決心したのもあの人間関係よりは、少しは血の通った人達に会えると思ったから。
「ひどい話ね」
 辺りに響く優しい声で晴菜が言った。
「でもいじめみたいなものは私もあったわよ。あなたのケースほど陰湿じゃなかったけどね」
 晴菜はそう付け加えた。
「私もよ」沙織もそう言った。
「僕達もいじめに遭ったことがある」幸久も忠信も言った。
「いじめではないが、家庭が荒れてて、いつも孤独だった。ただ、車を走らせることで心を満たしていた」早見がそう言った。
 結局いじめなどのひどい目に遭っていないのは久美と僕だけのようだ。
「宮澤君はいじめに遭わなかったんだ?」
 僕は人生のこれまでの経過を振り返って、
「ネガティブになったことや、友達が少なかったときはあったけど、はっきりとしたいじめに遭ったことはない。でも僕の人生は何かとネガティブで屈折しているんだ。どういうわけか」そう本当のことを言った。
「久美は?久美はいじめにも遭ってないで、家庭環境も良かったってこと?」晴菜が訊いた。
「私の家庭は……」
 久美はそう言った。まだ唇が瑠璃色を帯びている。化粧が取れている久美もまた絶世の美人だ。美しく水滴がぽたぽた落ちる。
「私の家庭はね。パパが社長だったから、いろいろ国会議員とか、名の知れた作家のような著名人が家を出入りしていたわ」
 みんな拍子抜けしているところ
「誰も自慢話しろなんて言ってないって」沙織がそう言った。
「私がこれだけ打ち明けたのに、久美あなたにはがっかりね。私が馬鹿みたい」杏が言った。その言葉に対して皆が杏の味方をした。
 でも誰も久美の味方をするものはいなかった。
 そして沙織が、
「久美、あなたはフルートも金賞を取ったみたいだし、いじめを知らない人生ってのもありかもね。でも私達みたいな人がいるってことも、少しは心の片隅に入れておいて」
 その沙織の言葉に対して、久美は、
「私はいじめとは無縁の人間なの。いじめられっ子も何か落ち度があるってことでしょ。でも私はその落ち度が明るみに出る前に、自分が良くなって、一番になって、決してビリにならないで、いじめに遭わないための努力をする。これが私の考え方だわ。パパからそう教わっているの」
 皆沈黙した。その沈黙を杏が鍾乳洞の中に響き渡るように破った。
「久美あんた、私達より可哀想な人ね。私あなたじゃなくてよかったわ。たとえあなたのような美貌を手に入れたとしても、あなたと人生は変わりたくない。私は私でよかった。本当、久美あなたは可哀想な人よ」
 そう言って僕達の鍾乳洞での沈んでいた深い事実を語り合う機会は終わった。
作品名:東京人コンパ 作家名:松橋健一