ALFRED 550
バルバリートは感傷的な回想を打ち切り、視線を落として自分の手のひらを見た。指を順に折り曲げ、順に開く。いち、に、さん、し、ご。ご、よん、さん、に、いち。今はもう、スコーンのように崩れやすいものでさえ、砕かずに上手くつまむことができる。健康的に焼けた浅黒い肌も、以前と変わらない。だが、これから先どんなに日差しの強いところへ行こうと、今以上に日に焼けることはないのだ。
「生身で飲めたはずの最後の酒はどんな味だったのかと、今でも考えることがある。夢にまで見るっていうのは、未練がある証拠なんだろう。まあ、昔ほどはこの身体のことを気にしなくなったけどな。何だかんだいってもレンのやつに診てもらった調整で違和感を覚えることもないし」
「でもそのあなたが、今は生身の人間と暮らしています」
V2の言葉にバルバリートは首をすくめた。
テロで身体を失い軍を除隊して以降、地元ハイランド市警の警察官として再就職はしたものの、バルバリートは生身の人間を避けるようになっていた。それは義体化した者の多くが一度は経験する心理だったが、普通の人間が苦手になるというより、相手が生体だというだけで無差別に妬みや憎しみに近い感情を抱くようになるのだ。そしてそんな自分自身をも嫌悪するようになり、そのせいでさらに生身の人間が疎ましくなる――という、果てしない負の感情の連鎖だった。その鬱屈した感情は次第に自己破壊的な行動となって現れるようになり、ひどい時期には、頭以外の義体のどこかしらが常に欠損していた。
手足が吹っ飛んでも死ぬわけではない。すぐに新品と交換すればいいだけだ。自分の身体だ、どう使おうと勝手だろう。
思えば自暴自棄になっていただけだが、その時はそれを認めようとしなかった。普段バルバリートの行動に口を出したりはしないクロダにさえ、おまえは身体を粗末に扱いすぎる、もう少しその義体を作っている者のことを考えろ、とたしなめられたが、当時はまともに取り合おうとさえしなかった。
だがそんな時に、ある青年――アラン・ヘンドリーに出会い、何かが変わった。
現在、セントラル地区の繁華街からやや南下したオールド・パーク近くのアパートメントで、バルバリートはそのアランという二五歳の青年と共に暮らしている。
ハイランド市ではそれほど有名ではないが、アランはローランド市に行けば名前を知らない者はいないという、大地主のヘンドリー家の一人息子だ。父ジュリアスは若いうちに亡くなっており、祖父のショーン卿と二人だけでローランドのエプシロン地区にある大屋敷に住んでいたが、ある事件をきっかけに警官のバルバリートと知り合った。そのままアランはセントラルにあるバルバリートの部屋に転がりこんでしまい、今に至っている。先頃ショーン卿が老衰で没したので、アランはヘンドリー家の正式な当主となり、《アラン卿》となったが、セントラルを離れる気はさらさらないようで、エプシロンの大屋敷をナショナル・トラストに委譲する手続きをしてしまった。
バルバリートはソファの隣で丸くなっているアルスターの背中を撫でながら云った。
「今までは、わざわざ高い金を出して生きている犬や猫を飼うやつの気持ちがさっぱり分からなかった。維持費も高いし、それでいてすぐに死んじまう。でも今は、やつらのことが少し分かるような気がしてきた。ただの見得や道楽だけで飼っているわけじゃないってことがさ」
「…………」
「あいつがいるから、義体用とヒト用の両方の食事を出してくれるレストランを探さなきゃならないし、部屋の空調にも常に気を配ってないといけない。以前は、よく感覚センサを切ったまま忘れてることが多かったが、最近それはなくなったな。朝は遅くても八時には起きるし、五、六時間は寝るようになった。ゴミ溜めのような部屋で暮らしていたおれが、今はとても人間らしい文化的な生活をしてる」
「服装も以前とずいぶん変わりましたよね」
「あいつがあれ着ろこれ着ろってうるせえんだ。服のことに関しては、なんでかやけに強情で譲らねえし」
そうぼやきながら、そういえば先日やらかした軽いケンカの原因は、バルバリートがその日しようとしていた紫と黄色の水玉ネクタイが原因だったことを思い出した。そんな模様のネクタイがここの家のクローゼットにあること自体耐え難い、こんな呪われたものが今日一日君の首にまとわりつくなんていうのは、ぼくに対する大いなる侮辱だ、とアランがムカつくほど美しい上流階級の発音で云ったので、カチンときて絶対このネクタイは捨てないと押し問答になったのだった。
「おれの色彩感覚ってそんなにヘンか? いっつもあいつに云われるんだが」
「わたしの口からはなんとも」
V2は小首をかしげて困ったような笑みを浮かべ、曖昧な返事をする。――優秀なるファジィ制御。
そのとき、玄関ホールの方からジジジジという呼び鈴の音がした。先ほどバルバリートも使ったが、細かいところがいちいちレトロな造りだ。
「噂をすれば、ですね。アランがいらしたようです」
そう云って、V2は応接室から出て行った。この屋敷の集中制御システムと連携しているV2には、当然セキュリティ機能も備わっているので、呼び鈴が鳴る前から訪問者の存在に気づいているはずなのだが、あえて呼び鈴が鳴ってから出て行くのは様式美というやつなのだろうか。
そんなことを考えながらアルスターのふさふさの腹を撫でつつ紅茶を飲んでいると、赤いケーキ箱を抱えたV2が金髪の青年を伴って戻ってきた。
「バルバリート、一時間ぶり」
シンプルだが質のいい白シャツと濃いグレーのカジュアルなスラックス姿のアランは、紙袋を抱えたままソファに腰掛けたバルバリートの肩に後ろから片手を回してハグする。
「ぼくの運の良さを褒めてくれ。一日二十個限定のスペシャルバウムクーヘン、最後の一個を手に入れられた」
「そりゃあ良かったな」
ぞんざいに応じただけなのに、アランは優雅に微笑み、アルスターの横に腰掛けた。そして手にしていた紙袋から、がさがさとワインボトルを取り出す。
「V2、あとこれもお土産。本当はこっちがメインだったんだけど。知人が年代物のワインをくれたから、それに合うチーズも買ってきた」
「ありがとうございます、アラン。レンが喜びます」
オールド・ムービーから抜け出してきたような執事姿のV2の横に並んで、容姿においても所作においても違和感がないのはこの青年くらいだろう。
マシン・インターフェイスどころか虫歯の治療痕さえない完全なる生身。真珠のように白く滑らかな肌に、最高級の義体でさえ容易に再現しえない天然のノルディック・ブロンド。そして明度の高いエメラルドの瞳と、それらの「部品」を生かすのに十分なまでの美貌、数十代続く出自からにじみ出る貴族的な気品。
かつて精子バンクで秘密裏に取引されていたアランの「商品」に、天文学的な値段がつけられていたというのも頷ける。物語に出てくる白馬の王子というのは、きっとこの青年のような姿をしているに違いない。
作品名:ALFRED 550 作家名:犬塚暁