第六章 飛翔の羅針図を
執務室に来た料理長の口ぶりから、飯はじきに用意されるはずだ。だから、まずは熱い湯に浸かりたい。そして、すべてを流すのだ。
彼とて、総帥が決定したことに逆らうつもりはない。一度は異議を申し立てるが、聞き入れられなければ、すっぱりと諦める。――とはいえ、現在において、苛立ちが胸の中を吹き荒れているのはどうしようもなかった。
「リュイセン様!」
背後から、重量感ある足音が聞こえてきた。本人は小走りのつもりなのだろうが、地響きのせいで、そうは感じられない。
「料理長?」
「お呼び止めいたしまして申し訳ございません」
料理長はリュイセンのそばまで来て姿勢を正すと、足を揃えて優雅に一礼した。
「大変、ご立腹なご様子でしたので、僭越ながらひとこと申し上げようと参りました」
「いや、いい。済んだことだ」
リュイセンは首を振る。肩までの艶(つや)やかな黒髪がさらさらと流れた。諦観とも自棄とも取れる彼の仕草に、料理長は微苦笑する。
「あの姉弟を、『貴族(シャトーア)』という一括りの中に閉じ込めてしまうのは、早計かと思いますよ?」
「何を言いたい?」
「そうですねぇ。例えば、気位の高い貴族(シャトーア)の当主代理殿が、リュイセン様に頭を下げて、『凶賊(ダリジィン)でなければ、雇いたい』と言ったこととか」
「なんで、そのことを……?」
遠巻きに見ていたであろう料理長には、声は聞こえていないはずだ。
「私は料理人です。食べ物を味わう口元の動きには敏感です」
肉付きのよい顔に満面の笑顔をたたえて、料理長はリュイセンのささやかな疑問を煙に巻く。
「まぁ、それよりも、気になるのはお嬢さんのほうですけどね」
料理長の言葉に、リュイセンは儚げな容貌の貴族(シャトーア)の少女を思い浮かべ……そこに年下の叔父の姿を重ねる。
「……いったいルイフォンは、どうなっちまったんだ?」
リュイセンは吐き出すように、ぼやく。
帰国してからずっと、彼は、弟分のらしくない言動に驚かされ続けていた。彼の知るルイフォンは、もっと飄々としていて掴みどころがなく、損得勘定が上手で要領が良い。そして、誰かに固執することはない人間だったはずだ。
「さて? ……私は昨日の晩、彼女がルイフォン様と食堂で話しているのを、聞くともなしに聞いてしまったのですが――そのときの彼女は、繊細で綺麗すぎて、いざとなれば舌でも噛み切りかねないような危うさがありました」
「あの女、そんな玉(タマ)じゃねぇよ。見た目こそ大人しいが、無計画で、無鉄砲だ」
メイシアを買いかぶる料理長に、リュイセンは反感を抱(いだ)く。
「ええ。今の彼女は違いますね。出かけている間に何があったのやら……?」
「知るかよ」
投げやりに言い放ったリュイセンに、料理長は目を細めた。ふっくらとした顔の中に目が埋もれ、それがまた、実に穏やかな福相を作る。
「あの子は、世間ずれしていない貴族(シャトーア)の箱入り娘です。……だからこそ、何もできないくせに、なんでもできるでしょう――ルイフォン様のためになら」
「え……?」
リュイセンは、一瞬だけ料理長から不穏な空気を感じ取り、ひやりとした。だが、どう見ても人の好さそうな料理長の丸顔に、気のせいだと思い直す。
「リュイセン様、気になるのなら、ご自分の目でお確かめになられたらよいかと思いますよ」
厨房へと戻る料理長と途中で別れ、リュイセンは医務室に向かった。ルイフォンが怪我の手当てを受けに行ったはずだからである。
しかし、医務室に行ってみると、ルイフォンは来ていないと言われた。
では、ルイフォンはどこに行ったのか――リュイセンはすぐに思い当たった。
ルイフォンの自室、『仕事部屋』だろう。
執務室に突如現れた〈ベロ〉――ルイフォンの母親が遺した、人工知能らしきもの。ルイフォンは、あれについて調べているに違いない。
〈ベロ〉は、ルイフォンご自慢の虹彩認証システムを鼻で笑っていた。リュイセンとしても、正直なところ、執務室に入るたびに認証処理をするのは面倒だったので、〈ベロ〉というのが勝手に敵を判別してくれるなら楽でよいと思う。――つまり、ルイフォンと、その母親との技倆(うで)の差は歴然、というわけだ。
「――相当、荒れているだろうな……」
執務室を出ていったときのルイフォンの後ろ姿は、憐れなものだった。
リュイセンは弟分の心情を思い、溜め息をつく。自信家だけに、プライドはズタズタだろう。
貴族(シャトーア)の娘は、あの状態のルイフォンに付き添うと言って出ていった。おそらくは邪魔だと追い返されたか、よくて完全無視――。
彼がそう思ったとき、少し先の扉が急に開いた。
「す、すすすみません! 失礼します!」
鈴を振るような、可愛らしい声――ただし、悲鳴に聞こえなくもない――が響いた。
リュイセンは、はっと身構える。ルイフォンの部屋から飛び出してきたのは、リュイセンの頭を悩ませている諸悪の根源、あの貴族(シャトーア)の娘だったのだ。
彼が咄嗟に思ったことは、何やら面倒臭そうだ、であった。
すっと端に寄り、気配を殺して壁と同化する。
顔を真っ赤にして、必死に廊下を駆け抜ける少女には、それで充分だった。リュイセンに気づかずに走り去っていった。
「なんだったんだ?」
階段へと消えていく彼女の背中を唖然として見送ったあと、リュイセンはルイフォンの部屋の扉を開ける。
その瞬間、冷気が彼を迎え入れ、思わずくしゃみが出た。
相変わらず、寒い部屋だった。機械に合わせて空調を設定しているとかで、通年この温度だ。だからその点については驚かない。
「お前…………」
リュイセンはルイフォンの姿を認めて、絶句した。
それまでの経緯から、彼の弟分は荒れているか、落ち込んでいるか。そのどちらかの状態だと想定していた。
しかしルイフォンは、半裸の肉体を冷風に晒しながら――。
――――。
「お、リュイセン、どうした?」
ルイフォンの表情に呑まれていたリュイセンは、はっとした。気づいたときには、彼の弟分は、いつものひと癖ありそうな猫の顔で笑っていた。
そのあまりにもあっけらかんとした様子に毒気を抜かれながら、リュイセンは、かろうじて可能性のありそうな解の正否について尋ねる。
「……襲ったのか?」
「喜びを分かち合っていたんだよ」
からかうように、ルイフォンは目を細めた。……どう受け止めればいいのか、よく分からない。
けれど、リュイセンは確かに見たのだ――扉を開けた瞬間の、ルイフォンの表情を。
鋭くも柔らかく、遠ざかるものを名残惜しげに慈しむ、愛しさにあふれた男の顔を――。
「……落ち込んでいると思っていたぞ」
まるで、ふてくされた子供のようにリュイセンは言った。
結構、心配していたのだ。頭が異次元に行ったまま、数日は帰ってこないだろうと思っていた。
「ああ。落ち込んでいるさ。たぶん、かつてないほどにな」
「そうは見えないぞ」
「今やるべきことを、あいつが教えてくれたからな」
作品名:第六章 飛翔の羅針図を 作家名:NaN