第六章 飛翔の羅針図を
「そ、そんなこと言って! ルイフォンは、私に『直感的に生きたほうがいい』って言ったこと、忘れていたじゃないですか!」
「忘れてたけど、今もう一度言ったから、それでいいんだ」
「そんな……!」
「何も問題はないだろう?」
ルイフォンの言葉に、メイシアの鋭い呼気の音。
そのまま彼女は息を止め、小さく首を振ったように見えた。
「メイシア……?」
ルイフォンは不審の声を上げる。
やがて彼女は、音もなく息を吐いた。その吐息は、細く長く――。
ゆっくりと黒絹の髪が後ろに流れ、花の顔(かんばせ)が現れた。
「……私は一度、直感ではなくて、計算尽くで我儘を通したんです」
「我儘、って、なんのことだ? 俺の部屋で『今、あなたと一緒に喜びたい』って言ったやつか?」
「あ、ああああれも、恥ずかしい我儘でした。…………けど、そうじゃなくて。それよりも、もっと前。庭で警察隊に囲まれたとき。私……ルイフォンに……」
「庭? 警察隊?」
「なんのお断りもなく、あ、あの……」
なんのことを言っているのか、ルイフォンは初め、さっぱり分からなかった。
だが、しどろもどろのメイシアを見ているうちに、だんだんと察しがついた。彼女がこんな態度をとるときは決まっていた。
彼なりに気を張っていたのだが、慌てふためく彼女の可愛らしさに緊張が解ける。いつもの猫背に戻ると同時に、むくむくと嗜虐心が沸き起こった。
「何を言いたいのか、まったく分からないんだが?」
「ですから!」
反射的に顔を上げたメイシアの目には、涙が浮かんでいた。
「あ、あなたの意志を無視して、私が強引に……!」
勢い込んで、そこまでは言えるのだが、ここで口の動きが止まってしまう。
瞳を潤ませ、真っ赤な顔で彼を見つめる口元が、やや拗ねていた。からかわれているのは分かっているらしい。聡明で落ち着いた彼女からは想像できない、喜怒哀楽のはっきりした自然な表情――。
メイシアは類稀なる美少女であり、そこに立っているだけで誰もが見惚れる。優しく微笑まれたりでもしたら、天にも昇る心地になるだろう。
けれどルイフォンは、彼女が必死に訴えたり、泣きながらも凛と前を向くような、そんな感情豊かな顔に惹かれる。透き通った魂が、ありのままに強く存在を示そうとする姿に魅了される。
――とはいえ、あまり苛めすぎるのも可哀想なので、助け舟を出した。
「お前が俺にキスしたこと?」
「そうです!」
叫ぶように答え、彼女は大きく息をつく。目尻から薄く涙がはみ出ていた。
「絶対に避けられないところで、お断りなしに……すみませんでした」
「謝ることはない。俺はいい思いをしたし、策としても悪くなかった。けど、驚いた。いったい、どうしたんだ?」
メイシアはルイフォンから隠れるかのように、再び、うつむいた。視線が落とされるのを追いかけるように、さらさらとした黒髪が流れ落ちる。
まただ。――ルイフォンの肌が粟立つ。
楽しく会話していたと思えば、唐突に彼女が沈む。どこかでボタンを掛け違えたかのような、この不自然さは……なんだ?
やがて、透明で繊細な、硝子細工のような声が響いた。
「スーリンさんが…………綺麗だったんです」
「は? スーリン?」
ここでどうして、シャオリエの店の少女娼婦、スーリンの名が出るのだろう。ルイフォンは訝しげに眉を上げた。
「シャオリエさんの店に入ったとき、スーリンさんはルイフォンに、その……抱きつきましたよね」
「……ああ」
ルイフォンは、そのときのことを思い出して顔をしかめた。
元一族のシャオリエは、自分の好奇心を満たすために、ルイフォンたちを呼びつけた――口では一族のためと言っても、本心はただの野次馬だと、ルイフォンは思っている。
そして、ルイフォンがメイシアを連れているのを知っていて、スーリンはメイシアの前でキスしたのだ。
「彼女は、本当にルイフォンを想っていて。それが、そばにいた私にも伝わってきて。いやらしさなんて欠片もなくて……」
「…………」
美化されている。
あの状況をどう見たら、そう解釈できるのか……。
ルイフォンが判然としない思いでメイシアを見やると、いつの間にか顔を上げていた彼女は、穏やかな優しい顔をしていた。
「私は、家が決めた相手に嫁ぐ身として育てられました。だから、ああいったことは、はしたないことだと思っていました。けど、あのときのスーリンさんは、本当に綺麗だったんです。『恋』というのは、あんなに素敵なものなんだ、って感動して…………憧れたんです」
彼女は白い頬を桜色に染め、何処か遠くを見つめていた。
「――だから、あんなことをしてしまいました。すみません。……夢みたいでした。……でも、これ以上は駄目です。ルイフォンのご厚意には甘えられません」
ルイフォンの口から「え……?」とひび割れた声が漏れた。
「あれはスーリンの真似っこだったのか」
「……はい。…………私、スーリンさんに憧れたんです」
その答えを聞いた瞬間、ルイフォンは、強い力で胸が押しつぶされるのを感じた。呼吸が止まり、息苦しさに脂汗が垂れる。
目の前にいるのは、恋に恋する少女――。
彼女は、貴族(シャトーア)として生まれ、貴族(シャトーア)として育った。
どんなに美しく羽ばたける翼を持っていたとしても、籠から出たばかりの彼女の心は、まだ雛鳥のまま――。
「……って、ことは、あの状況なら、相手はリュイセンでもよかったわけだ」
心にもない言葉が、思わず口から漏れていた。
悔しいような切ないような、やり切れない思いが、胸を掻きむしった。
「『恋人ごっこ』なら、誰でも同じだからな」
――決意と覚悟を踏みにじられた気がした。自分が傷つくだけの台詞を、それでも言わずにはいられなかった。
「ち、違います!」
「どこが違うんだ!? 反論できねぇだろ!」
「……っ!」
刹那、メイシアの表情が一転した。
すっと上げられたその眼差しは――まるで憎しみ。
「…………どうして……『憧れ』ということにしてくれないの……?」
押し殺したような、声が揺らめく。
「憧れだって、憧れに過ぎないって、思い込もうとしているのに……!」
美しいはずの顔は奇妙に歪み、怒りに飲み込まれていた。しかし、指先ひとつ触れれば泣き出しそうな――そんな危うい均衡を保っていた。
「なんで、他の人じゃなくて、『ルイフォン』なのかって!? そんなの!」
彼女は、肩を使って大きく息を吸い込んだ。
一度、息を止め、……そして、一気に吐き出す――!
「『ルイフォンの恋人』になりたかったからに決まっているじゃない!」
魂の叫びが舞い上がった。
ざぁぁっと、勢いよく叩きつけられた想い――それはまるで、桜吹雪のよう……。
「だから、これが、私の『計算尽くの我儘』……! お芝居でいい、一瞬だけでいい、私、『ルイフォンの恋人』になりたかった!」
「……お前、言っていることが……」
そんな彼の呟きは、彼女の強い声に遮られる。
「――だって……」
メイシアの瞳が盛り上がる。
そして――。
「望んじゃ駄目なことだから……!」
均衡が崩れた。
作品名:第六章 飛翔の羅針図を 作家名:NaN