心中未遂
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冷たいと感じることが、これほど身体を委縮させることになるなどということを、最後に感じたのはいつのことだっただろう。
記憶の中では存在しない冷たさという感覚。実際に味わったことがあると思っていたのは、夢だったのだろうか。本当に冷たいと感じるようなことはしないようにしていたはずなのに、いつの間にこんな風になってしまったのか……。
自分の意識が飛んでしまい、どこを彷徨っているのかが分からない間、覚めない夢の中で彷徨い続けなければいけないことを自覚するのは、人生の堂々巡りを繰り返してしまうことに繋がるに違いない……。
ある日、弥生の入院している病院に、けたたましいサイレンの音とともに、二人の急患が運び込まれた。救急病院なので、救急車の音には慣れてしまっていたにも関わらず、その日の音はいつになくしつこく、耳から離れなかった。時間的には入院病棟は完全な消灯時間、宿直の看護師が、ナースセンターに詰めている以外は、当番の医者がいつものように一人いるだけだった。
弥生は、ちょうどその時起きていた。元々入院してからというもの、それまでが不規則だったのか、それとも規則正しい生活を忘れてしまった身体になってしまっていたのか、夜目が覚めることは珍しくなかった。そんな時はトイレに行って、帰りに食堂と隣接しているラウンジに顔を出し、椅子に座って、表の明かりを見つめることが多かった。ラウンジの明かりをつけることもなく、部屋の中は非常灯の明かりと、自動販売機の明かりがついているくらいで、表の明かりが眩しく感じるほどの寂しさが漂っていたのだ。
入院してからの最初の頃は、昼間寝ていることが多かった。入院前の不規則な生活が祟ったからであったが、入院前はずっと、スナックでアルバイトをしていたのだ。
弥生の年齢は、二十歳を少し超えたくらいなので、スナックでは、客からは人気があった。見る人によっては三十歳くらいに見える人もいるくらいで、
「若い娘にしては色気を感じるし、年齢的にも擦れていないところがいい」
と言ってくれる客も少なくはなかった。落ち着いて見えるからかも知れない。
もっとも、それぞれの客は、弥生に対して皆自分だけが感じている思いを抱いていると思っているようだが、弥生を気に入っている人のほとんどは、弥生に接する態度、言い回しなど、ほぼ同じだった。それを知っているのは弥生だけなので、少し楽しい気分になっていたが、本人たちには可哀そうな気がする。
ただ、弥生に対して想ってくれている人は、それぞれ同じ特徴を持った人だということで、弥生には誰を贔屓するともなく、接していくしかないと思っている。皆それぞれに特徴は持っているのだが、弥生に対しての態度が同じなのだ。本当は誰か好きな人を選んでもいいのだろうが、弥生には、そんなことができる性格ではなかった。
ただ、皆弥生に対しての態度や感覚は同じだったが、程度の差は大きなものだった。軽い気持ちの人もいれば、毎日のように通ってくる人もいる。思い入れはこれだけ違うのに態度が変わらないというのも不思議なもので、弥生にとって、誰を選ぶなどできないことも頷ける。
――他の人に悪い――
という感覚ではないのだ。本当に一人を選んでしまうと、自分が後で後悔しそうな気がするところが大きな問題だったのだ。
弥生はそれでも一人の男性を好きになりかかっていた。彼は弥生のことを好きだと言っている中の一人ではない。かといって、他の女の子に興味を持っているわけではない。だが、いつのまにか、
「弥生さんのお客様」
として、店の中で公認になってしまった。
彼も弥生も悪い気はしていない。お互いに最初はバツの悪そうな顔をしていたが、顔を見合わせると苦笑いをして頷けるような関係。いわゆる自然な関係と言っても過言ではない仲を、まんざらでもないと思っていた弥生だった。
そんな弥生がスナックに勤め始めた理由を、実はまわりの人はほとんど知らない。弥生の過去について知っている人は限られているのだ。弥生自身、自分の過去を半分も覚えていないと思っている。
だが、それも矛盾した考えである。全体を覚えているわけではないので、今の記憶が全体に対してどれだけのものなのかということを分かるすべなどありえないのだ。弥生が入院している原因の一つは、記憶が鮮明ではないという点、しかも、記憶を取り戻すための治療を何度となく施したが、肝心なところでの記憶は皆無に等しい。そう思うと、少なくとも記憶していることは半分以下ではないかという推測が成り立つわけで、その推測だけが弥生に対しての記憶をまわりが認識しているすべてであった。
弥生が記憶を失うきっかけになったのは、自殺が原因だった。手には躊躇い傷をいくつも残し、自殺を図ったが、結局すぐに発見されて、病院で息を吹き返した。
「結局あなたが死のうだなんてできないのよ。誰かがあなたを助ける運命になっているのよ」
と、ママから言われた言葉が印象として弥生の胸に残ったが、ママの方としても、
「どうして、あのまま死なせてくれなかったの?」
という弥生の言葉に胸を貫かれる思いを感じながら、やっとの思いで返した言葉だった。
ドラマなどをよく見ている人には、二人の間で交わされた会話は、
――ありがちな会話――
として認識されるかも知れないが、弥生にとっても、ママにとっても、気持ちを絞り出すようにして出てきた言葉であることには違いなかった。
「自殺しようなどという心境になれば、誰もが口にするセリフなんかよりも、心の中につっかえているものがどれだけ大きいかということの方が、はるかに大きな問題なのよ」
という答えがそれぞれから聞かれそうな気がする。
当然、自殺未遂ということもあり、警察も尋問にきたが、生き残って意識が戻ったとはいえ、気持ちの傷が癒えているわけではないので、尋問に対してさほど期待できる回答が得られたわけでもない。その時はまだ誰も弥生の中から記憶が欠落しているところがあるなど、誰にも分かっていなかったのだ。
最初に気付いたのは、本人だった。普通に生活するのに、何ら問題がないというところまで回復したことで、退院を許され、自宅に帰った。しばらくは何事もなく暮らしていたのだが、ある一定の感覚で、
――大きな不安に襲われる――
と思うことで、身体に震えが走るほどに心境が変化する瞬間があった。瞬間というには長すぎるのだが、あれこれと考えられる時間ではない。気が付くと、不安が消えていたのだが、
――これは一体何なのかしら?
という思いを残すに十分で、次に起こった同じ現象に対して、
――やっぱり、残った思いが、また同じ感覚を呼び起こしたんだわ――
と感じさせたが、実際にはこれが定期的に起こっていることだと思うと、
――何かに呪われているのかも知れない――
という思いに駆られ、いつになったら解放されるのかが見えてこない間、ずっと苦しめられる気がして怖かった。