ペルセポネの思惑
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映美子が拉致されて数週間が経った。その間九ノ崎家の女中たちは、厳馬の命令どおり映美子の所在を誰にも明かすことはしなかった。だが、噂というものは決して馬鹿にできぬもので、映美子が厳馬に拉致されていることはすっかり村民の知るところとなっていた。
「映美子ちゃん、九ノ崎の土蔵に押し込められとるそうじゃ。何とかしてやりたいが相手があの厳馬じゃなぁ」
村人達は皆、映美子の身を案じながらも厳馬が恐ろしくて助けられない状況を嘆いていた。
土蔵ではやつれた姿で機械的に食事を口に運ぶ映美子がいた。近頃、厳馬の欲望は留まる所を知らず、日に二回三回と土蔵に足を運んでくるようになった。その度に映美子は死に物狂いで抵抗を試みるのだが、男女の力の差をいつもまざまざと見せつけられてしまう。そして結局、キチガイじみた愛撫で弄ばれ、我が物顔で彼奴は去っていくのだ。しかし、映美子はまだ諦めていなかった。虎視眈々と機会をうかがっていた。
月夜の明るい晩、女中が湯殿へ連れて行くすきをみて映美子は逃げ出した。その女中へ厳馬が与えるであろう仕打ちを考えると忍びなかったが、背に腹は変えられない。半裸の格好でどうにか九ノ崎家を抜け出て、村内をひた走り自宅へと逃げ込んだ。家にさえ逃げおおせればどうにかなる、家族が守ってくれる、と映美子は考えていた。
だが、映美子を待っていたのは悲惨な仕打ちだった。前述の通り、映美子が九ノ崎の土蔵に押し込められているのは、すでに村中の知る所となっていた。峰澤家も当然この噂を耳にしているはずである。だが峰澤家は、可愛い一人娘の居場所がわかっても何の動きも見せなかった。峰澤家も厳馬を恐れていたのである。映美子を守ろうというそぶりを見せれば、厳馬からどんな仕打ちを受けるかわからない。そうなれば峰澤の家は滅んでしまう。そんな考えの峰澤家が、命からがら逃げてきた映美子を匿うことなど到底できるはずもない。
母は、せめてもの優しさとばかりに映美子に服を着せ、温かい食事を与え、そして申し訳なさそうに言い聞かせた。
「わしらも辛いんじゃ。映美子、すまんが堪忍しとくれ」
その直後、扉を乱暴に叩く音がして逃走劇は終わりを告げた。九ノ崎の捜索隊にぺこぺこ頭を下げる両親を、映美子は虚ろな目で眺めながら九ノ崎家へと連れ戻されていった。
季節は過ぎ去り、はや数ヶ月が経った。
映美子はその後も何度か九ノ崎家からの逃亡を図った。しかしその全てが未遂に終わり、その都度九ノ崎家の土蔵へ連れ戻される日々を繰り返していた。だが、映美子のその執念に厳馬も少々危惧を抱いたのだろうか、女中を介して改めて正式に映美子に求婚してきたのである。
女中からその話を聞いた夜、映美子はその申し入れについて夜も寝ずに考え込んでいた。無論、仇敵である厳馬の元に嫁ぐなど言語道断だ。だが、如何せん旗色が悪すぎるのも事実。晴れて夫婦となれば、さすがの厳馬といえども嫁を土蔵に閉じ込める真似はしまい。そうなれば、ある程度自由は約束されるだろうし、もしかしたら峰澤家に帰れる機会もあるかもしれない。
実は、それ以上に切迫した問題が圧し掛かってきていた。映美子は、少し膨らみ始めた自身の腹をさする。今は何とかひた隠しにしているが、湯殿へ行く際に女中に気づかれるのは時間の問題だろう。そうなれば即座に厳馬の耳にも入るに違いない。彼奴の子供を産むなんて考えただけでも身の毛がよだつが、生まれてくる子にはなんら罪がないのもまた事実。せめて、せめて子供だけは厳馬の手の届かないところで健やかに育ってくれぬものだろうか。
ぼんやりとしたランプの光がほのかに映美子の頬を照らす。やがて、彼女は真一文字に口を結び、なにやら悲壮な決意を固めたような顔つきになるとおもむろに横になり、ランプの火を吹き消して目を閉じた。
後日、映美子はこちらも女中を介し厳馬の申し込みに回答した。
厳馬殿の申し出について私、峰澤 映美子はこれを受け入れることとする。ただし、以下に示す5つの約束を必ず履行されること。履行されない場合はいかなる事情であっても婚姻は行わない、もしくは破棄するものとする。
・現在私、映美子は妊娠しているため出産まで婦人科医の定期的な診断が行われること
・身篭っている子供の出産は峰澤家で行うこと
・生まれた子供は性別を問わず、峰澤家もしくは峰澤の縁者の家で引き取ること
・結納の日取りは、映美子の出産後体調が回復してからとすること
・結納の日以降、九ノ崎家は峰澤家には一切干渉しないこと
女中は、映美子のこの回答を厳馬に報告した。厳馬は、これを聞いてげらげら笑い出したそうだ。そして、ひとしきり笑い終えた後、
「相も変わらず思い通りにならん女だ。この期に及んで下らんことばかりさえずりおって」
と呟いた。そして、映美子のいる土蔵を窓から睨めつつ、女中に婦人科の医師を手配するよう命じた。
意外にも厳馬は映美子の5つの要求を飲んだ。これは映美子を攫って以降、初めて見せた譲歩の姿勢と言ってよかった。特に、出産という特殊な状況とは言え一時的に帰宅が許されたのは映美子にとっても峰澤家にとっても僥倖だった。さらに映美子にとって良かった事は、これ以降目に見えて厳馬が土蔵を訪れる回数が減ったことである。身重の映美子を厳馬なりに気遣ったのか、単純に創作活動が多忙を極めていたのか、その理由まではわからない。
どちらにしても、束の間の平穏状態が二人の間に訪れていた。
「ただいまぁ」
いよいよ出産間近となり、映美子は御付き兼見張りの女中を連れて峰澤家に戻った。土蔵を逃げ出した際に少々出入りはしたが、落ち着いた形で実家の敷居をまたぐのはほぼ一年ぶりだった。すでに帰宅の報を受けていた父母は、土間で映美子と抱きあい涙をぽろぽろこぼしながら何度も「ごめんな」と謝り続ける。映美子は、涙が止まらない両親と共に自宅に入り久しぶりに自分の家での生活を取り戻した。その短い自宅での日々の中、映美子は両親に一つだけお願いをした。
「お父さん、お母さん。結納の時に着る振袖と帯がほしい。九ノ崎の家でも用意するだろうけど、振袖だけはどうしても自分で選びたい」
両親がこの憐れな一人娘のいじらしい願いを聞き届けぬ理由など、あるはずが無かった。
映美子がお腹の子を無事出産したのは、それからすぐのことだった。生まれた男の子は、即座に別の村に住む分家筋の峰澤家に引き渡されることとなった。
「これで、恐らくは九ノ崎の手の届かない所できっと元気に育ってくれるだろう」
映美子はそう願いながら、子供にちんまりとしたお守りを首からかける。映美子お手製の無病息災のお守りだった。その後、映美子は父母と産んだばかりの子に別れを告げ、九ノ崎の家へ再び戻っていった。