ペルセポネの思惑
5
「……その分家に引き取られた子が、この俺だ」
峰澤は、ここまで話すと一息ついて猪口をなめた。
「……」
あまりに数奇な生い立ちに、私は言葉を失っていた。
「俺自身は、この後分家で平穏無事に育ったからまあいい。だが、映美子と厳馬、俺の両親の話にはまだ続きがあるんだ」
そう言うと峰澤は、再び猪口で唇を湿らせて再び話し出した。
九ノ崎家に戻ってきた映美子に、厳馬は女中を介し「結納の日を年明けの元日にする」と一方的に宣告した。だがもうすでに元日までは日取りも短く、映美子の体調回復や細々とした準備の期間がまだまだ必要なのだが、それを厳馬に言い出せる者などいなかった。厳馬自身も、こちらがあれほど映美子に譲歩した以上、もう譲るべき点は毛ほども無いという心持ちだったようだ。
このころから、映美子に異変が起きはじめていた。九ノ崎家に戻ってからも相変わらず土蔵に閉じ込められていた映美子だったが、出産前は一日三食ちゃんと食事を摂っていた。だが、出産から帰ってきてからはめっきり食欲が減り始め、いつの間にか一日二食になり、一日一食になり、しまいには何も口にしない日も出始めた。膳を運ぶ女中が心配そうに訊ねてみても
「結納の日が楽しみで、食事ものどに通らなくて……」
と、か細い声で答えるだけだった。実際、結納の日が本当に楽しみなのかわからないが、出産の際に峰澤家から持ってきた着物と数本の帯を合わせて色の具合を確かめている映美子を何人かの女中が見かけていた。
女中達は「何かあるな」と感づきつつも、このことを厳馬に知らせなかった。同じ女性として、乱暴者の厳馬と望まぬ結婚をさせられる映美子の辛く情けない気持ちは痛いほど良くわかったし、普段些細なことで折檻をしてくる厳馬への反感もあった。恐らく、映美子が急に三食抜くような事態が起きたなら、女中はすぐさま厳馬に報告しただろう。だが厳馬を恐れている女中たちは、次第に映美子の食事の量が減っていくことは報告しづらかった。不要な厳馬への接触は避けたい故、食事の量が少し減ったくらいでは報告をしに行きたくないし、明らかに食事量が減った頃に報告をすれば、報告の遅さを咎められるからだ。
そして、結納の日である元日となった。
当日の朝、いつものように女中が朝食の膳を持ち土蔵にやってくる。そして鍵で小窓を開けて膳を差し入れようとしたとき、女中はなにやら違和感を覚えた。
昨晩の膳がない。
映美子は、食事をしようがしまいが必ず次の食事までに膳や食器などを小窓の前に戻していた。しかし、今朝に限っては小窓のそばに何も置かれていないのである。女中はてっきり、映美子が今ちょうど食事をしているのだろうと考えた。だが、大事な結納の日の朝だ。昨晩の食事を今頃食べて食あたりなど起こせば大変なことになる。今持ってきた朝食を召し上がるよう映美子に言おうと思い、女中は屈みこんで小窓から土蔵の中を覗き込んだ。
最初に女中の目に入ったのは、横倒しになった昨晩の膳だった。そしてその上に、ふらふらと宙に浮び揺れる艶やかな物体。それをもっと良く見ようと女中はさらに屈んで体勢を変え、さらに下から見上げるようにする。
そこには土蔵の梁と自らの首に帯を絡ませ、晴れ着姿でぶら下がる映美子がいた。
数刻後、女中や九ノ崎家の者が慌しく土蔵へ駆けつけた。本来、土蔵を開けるには厳馬の許可が必要なのだが、この緊急時にそうも言っていられない。もどかしい手つきで鍵を開け、なだれ込むようにして皆が土蔵の中へ入り込む。
土蔵のほぼ中央に吊り下がっていた映美子はなぜか、凛としていて荘厳でとても美しかった。
映美子は自ら化粧を施し、結納の際に着るつもりだったと思われる振袖を身に纏い、予備の帯を用いて縊れていた。その死に顔は、死に顔でありながらも気品に溢れていて、どこか生前の気丈な部分も見て取れる。床に転がっている昨晩の膳はおそらく首を吊る際に踏み台にしたのだろう。その膳すらも、あたかも最初からそこに存在していなければならないオブジェとして、この壮麗な情景の一部を構成していた。そして、それら全てが皆が持ち寄ったランプの光を受けて煌びやかに照り輝く様は、名画のように人の目を奪い、見る人の心を恍惚とさせるものがあった。
しばしの間、土蔵に入り込んだ皆がウットリと梁からぶら下がる映美子を眺めている時、突然土蔵の扉が荒々しく音を立てて開いた。
騒ぎを聞きつけた厳馬だった。
厳馬は、家族や女中を乱暴に押しのけのっそりと映美子の前へと歩み寄る。そして映美子をじっと見つめ、その周りを2、3周歩いて回った。
「ふむ。なるほど、悪くはない、な」
厳馬はそう言い残して自身のアトリエに戻り、スケッチブックを手にして再び戻ってきた。そして、映美子と向かい合う場所にどっかりと胡坐をかき、その場にいた女中達に命じる。
「いいか。俺は、この死体が腐り落ちていく様を絵に残し、作品にする。
今日からここが俺の新しいアトリエだ。
お前ら急いで今のアトリエから全ての画材道具を持って来い」
言い終わると、厳馬は周囲の喧騒など気にもせず猛然とぶら下がる映美子をスケッチし始めた。女中たちは、厳馬のこの急な模様替えの指示にてんてこ舞いとなり、当然の如くその日の結納は沙汰止みとなった。
「腐っていく死体の、絵……」
私は溢れ出る怖気を抑えられなかった。
「厳馬は、結納当日に未婚の象徴である振袖を着て首を吊った映美子さんへの意趣返しで、彼女の死体が腐りきる様を描いて自分の作品にしようと考えたっていうのか」
発想も狂っていれば、それを本当に実行する神経も狂っている。私は改めて九ノ崎厳馬という男に言い知れぬ恐怖を覚えた。愛し方も到底看過できるものではないが、その愛した女性の縊死体を弔うこともせず、絵画として残し世間の見世物にしようだなんて普通考え付くだろうか。
私の心中を見透かすかのように、峰澤は補足する。
「腐乱死体を絵に描き残すっていうのは、歴史上例が無いわけじゃない。
有名な物だと仏教絵画に『九相図』ってものがある。
美女の死体が腐り果て、骨になるまでの一連の様子を描き残したものだそうだ。
そんな絵を残すことで、現世の肉体への執着を捨てさせようとしたものらしい。
恐らく、厳馬も画家である以上『九相図』の存在ぐらいは知っていただろう。
むしろ、それをどこかで意識していたのかもしれない」
「…………」
峰澤は、言葉も出ない私を意味ありげな目線で見つめていたが、しばらくして再び口を開いた。
「祖母曰く、これ以降九ノ崎家の噂はぱったりと途絶えているそうだ。
厳馬もその後作品を発表した形跡がない。
つまり画家九ノ崎 峰扇の名は画壇から20年以上の間消え失せている」
徳利に残っていた酒を全て猪口に注ぎ再び唇を湿らせた後、峰澤は言葉を継いだ。
「祖母から話を聞いた翌日、俺は村へ、九ノ崎の家へ行く事にしたんだ」