③全能神ゼウスの神
拒絶
「…はっくしゅ!」
勢い良く、くしゃみが出る。
その瞬間、サタン様とリカ様が同時にこちらを見た。
「ごめんなさ…っくしゅ!!」
湖畔にそよぐやわらかな風が濡れた体から体温を奪い、体がぶるっとふるえる。
「あーあ、風邪ひいちゃったかもー。」
サタン様の呟きに、リカ様が舌打ちしながら掴んでいた胸ぐらを乱暴に離した。
「…来な。」
低く不機嫌に言うと、サッサと森の中へ入っていくリカ様。
「やった♡」
サタン様は嬉しそうにこちらをふり返り、いたずらな笑顔を浮かべた。
(なんだかんだ、やっぱり優しい…。)
やわらかに高鳴る鼓動を感じながらリカ様の背を追って、私もどんどん深い森の中へ入って行く。
鬱蒼と生い茂る木々の獣道を、慣れた様子でひょいひょいと身軽に進んでいくリカ様を、サタン様と二人で必死に追った。
「マジか…。」
サタン様がきゅうに立ち止まり、小さく呟く。
「魔導師かよ…。」
そこでハッとした様子で、リカ様の背中を食い入るように見つめた。
「しかも…まさか魔導師…長?」
何を見てそう言ったのか、確認しようと背伸びする。
するとサタン様の肩越しに、リカ様がちょうど立派な建物に入って行く姿が見えた。
「魔導師って、なんですか?」
私が訊ねると、サタン様は渋い顔をしながら頭を掻く。
「…いわゆる「賢者」、かな。 広汎かつ深い知識を持ってて、宇宙だけじゃなく、この世界全ての成り立ちを解き明かしたり、それに関わる物事に対して強大な魔力を行使する役目を担ってて、その権限を持ってる。…リカさんの服…よく見たら襟首に魔導師長の印がついてた。」
いつになく堅い口調のサタン様に、私の心がざわついた。
「…それって、サタン様にとって…不都合なことなんですか?」
「…んー…。」
サタン様は珍しく、言い淀む。
赤い瞳を伏せてしばらく考え込むようなそぶりを見せたけれど、すぐにパッと笑顔になった。
「とりあえず、着替えなきゃね。」
珍しく話を逸らしたサタン様に、胸のざわつきが大きくなる。
私は不穏な雰囲気を感じながら、サタン様の後について建物に入った。
建物の中は荘厳な造りで、ゼウスの神殿とは違った不思議な力に満ちている。
入ってすぐの部屋の前で、リカ様が待っていた。
「ここ、着替えに使っていいから。」
(ここは…リカ様の今の家なのかな?)
『隠れ家』と呼ぶにはあまりにも大きくて立派な建物に、私は違和感を覚える。
「ありがとうございます。」
私が部屋に入ろうとすると、やわらかなものを頭にポンと乗せられた。
「!」
驚いてふり返った時には、もうリカ様はサタン様と廊下奥の部屋へ入って行くところだった。
頭に乗せられた物は、ふわふわのタオル。
「甘い…。」
タオルに顔を埋めると、仄かに懐かしい香りがした。
(リカ様に会えた…。)
(歓迎されてなさそうだけど。)
苦笑しながらも、変わらず無機質で無愛想なリカ様に私の頬が自然とゆるむ。
そもそも、歓迎されるとは思っていなかった。
(だって、リカ様はずっと私を還そうとしてたんだもんね。)
でも、それは私が事件の真相を知ることがないよう気遣ってくれてのことだから。
だから全てを知ったと伝えたら、きっと受け入れてくれる。
私は手早く着替えながら、これからまたリカ様と暮らせることに、心が浮き立った。
(そういえば、ヘラ様は…。)
今までは、帰るとすぐにヘラ様が笑顔で迎えてくれていた。
なのに今日はまだ姿を見ていない。
「ま、広いもんね。」
きっとどこかの部屋にいるのだろう、と私は思い、先ほどリカ様達が入って行った廊下奥の部屋へ向かう。
部屋の前に立ち、ノックしようとしたところで中から聞こえてきた声に動きが止まった。
「まさか、魔導師長になっちゃってるなんて…そりゃ見つかんないわけだ。」
「…魔王みずからフェアリーを連れてのお出ましとは…なに企んでんの?」
「企むなんて、人聞き悪いなぁ。」
サタン様が、クスクス笑う。
「…なんで、あいつを巻き込んだ。」
リカ様の低い声色に、背筋がゾクッとふるえた。
「せっかく還れてたのに、なんでそっとしといてやらねーんだ。」
怒りのこもった言葉にも、相変わらずサタン様は動じない。
「宇宙が破滅しちゃうから、仕方ないでしょ。」
「…なに?」
すごむような口調で、リカ様がサタン様に詰め寄る気配を感じた。
「魔導師のあなたは今、俺たちとは違う角度から宇宙を見ているから気づかないんでしょうけど…陽がゼウスになってから、宇宙は崩壊の一途を辿ってるんですよ。」
「…。」
リカ様が小さく息をのむ音が聞こえる。
「やっぱりゼウスはあなたじゃなきゃ、ダメだ。」
珍しく、真剣な声色のサタン様に、リカ様もきちんと向き合っているようだ。
「あなたにゼウスに返り咲いてほしいから、フェアリーちゃんを死神に刈らせたんです。あのままじゃ、再び陽の手に堕ちてたし。」
そこで、シンと静まり返る。
恐ろしいほどの静寂が続く中、私は立ち聞きのような形になっていることに気づく。
(こんなの、ダメだ!)
私が慌てて扉をノックしようとした、その時。
「宇宙がどうなろうと、私に関係ない。」
(…え?)
「私はもう、ゼウスに戻らない。」
思いがけない言葉に、私の手から濡れた服とタオルが滑り落ちた。
小さな湿った音に、室内の二人がハッとする気配を感じる。
勢いよく開いた扉の前に、リカ様が立っていた。
「…すみません…立ち聞きするつもりじゃ…。」
嫌な音を立てる鼓動に合わせるかのように小刻みにふるえる声で謝りながら、落ちた服を拾う。
無言のリカ様と目を合わせる勇気が出ず、服を拾った後も私は俯いたままでいた。
そんな私に、室内からやわらかな声が掛かる。
「フェアリーちゃん。入っておいでよ。」
私はちらりと上目遣いにリカ様を見上げた。
すると、リカ様と一瞬目が合い、その冷ややかさに驚いて再び俯いてしまう。
そんな私の目に、リカ様の足が後ろへ一歩下がるのが見えた。
(…入っていい、ってこと?)
私は小さくお辞儀をすると、部屋へ足を踏み入れた。
「お邪魔します…。」
背中で扉が閉まる音がし、目の前のソファーにはサタン様が腰かけているのが見える。
その向かいに、リカ様が無言で腰を下ろした。
「…。」
黒い瞳が私を見つめている気配を感じ、このままじゃいけないと思い直す。
「あ…の…リカ様…。」
勇気をふりしぼって声を掛けると、リカ様の無機質な視線と目が合った。
「ゼウスの地位は、もう必要ないんですか?」
ふるえる声で訊ねると、リカ様が無表情のまま小さく頷くのが見える。
「…それは、今の状況でヘラ様を充分守れるから、ということなんですか?」
ヘラ様の名前が出た瞬間、リカ様の表情が強ばった。
口をかたく引き結び、呼吸を止めたまま私から目を逸らす。
黒い瞳は、微かに揺らぎながら一点を見つめたままだ。
ピンと空気が張りつめたけれど、その緊張の糸を断ち切ったのもリカ様だった。