③全能神ゼウスの神
最期の別れ
玄関のドアを開けると、母が心配そうに立っていた。
「ただいま。」
私が笑顔を向けると、母がホッとした表情になる。
「おかえり。…なんだったの?」
「うん。防犯カメラの解析が済んで今までより鮮明な映像がとれたから、犯人逮捕に繋がりそうって。だからまた色々聞かれてた。」
私の言葉に、母が俯いた。
「何回も聞かれて、その都度思い出させられて…。」
なんだか当事者の私より辛そうで、申し訳なさが募る。
「大丈夫。」
私は母を励ますように、努めて明るい表情を見せた。
(こんなに心配してくれる母を、私は明日の夜、もっと悲しませることになるんだ…。)
微かに迷いが生じたその時、手に持っていたスマホが着信音を奏でる。
「ごめん。」
母に断りを入れて、画面を確認する。
(…陽。)
全てを知ってしまった今、もう何も話す気持ちにはなれなかった。
私は着信を無視して、ポケットにスマホを入れる。
(そうだ。この人をなんとかしないと、宇宙の均衡が崩れるんだ。)
拳をぐっと握った私の目の前に、ココアが置かれた。
「うわぁ、ありがとう!」
私が満面の笑顔を返すと、母が嬉しそうに微笑む。
ココアの甘い香りに、リカ様を思い出した。
無表情なのに、すごく嬉しそうにココアやチョコレートを口にする姿が次々と蘇り、私の頬は自然と緩む。
こうやって、何をしていても何気ない些細なきっかけでリカ様を思い出す。
(両親を悲しませるのは辛いけれど…やっぱり私はリカ様の傍にいたい。)
(たとえ、報われない想いでもいい。)
(リカ様が大事にしているものを一緒に守れて、同じものを見つめていけるなら。)
(『宇宙を守る』)
(そんな大それたことは考えられない。)
(でも、私がリカ様の傍にいることが、結果そこに繋がるのなら、この決断に自信を持てる。)
私は湯気の立つカップに口をつけると、ココアを一口ふくんだ。
(ん?甘さ控え目?)
「なんか今日のココア、甘すぎないか?」
(え?)
父の言葉に驚くけれど、そこではたと気づく。
(そうか…ヘラ様の作るココアは、甘党のリカ様仕様だったんだ。)
私がふふっと笑うと、母も嬉しそうに笑った。
「好きねぇ、ココア。」
私は満面の笑顔で頷いて、ココアをゆっくりと飲む。
「たしかに、体が温まるもんな~。」
父も相好を崩して、カップに口をつけた。
(私がいなくなることで悲しむだろう両親が、私を思い出した時に少しでも幸せな気持ちになってくれるように、とびきりの笑顔を遺していこう。)
私はニコニコと笑顔を絶やさず、両親と会話を楽しんだ。
次の日、私は母と買い物に出かけた。
両親の誕生日はまだ先だったけど、母と父にささやかなプレゼントを買う。
「お父さん、帰って来たら驚くわよ~。」
二人で入った喫茶店で、母が嬉しそうに笑った。
気を緩めると涙が零れそうになるので、私は必死で笑顔を取り繕う。
「快気祝いだよ♡」
仕事から帰って来た父が、私のプレゼントに驚きながらも喜んでくれる。
そして夕飯を囲み、家族3人で楽しい時間を過ごした。
その間にも陽から連絡が入るけれど、私はそれを無視し続ける。
「なんか、久しぶりにこんなに笑ったなぁ!」
父はそう言いながら、寝室へ行った。
私と母は、顔を見合わせて微笑み合う。
「じゃ、おやすみなさい。」
母が幸せそうな笑顔を私に向けた。
「おやすみなさい。」
私も、とびきりの笑顔で最期の挨拶を交わす。
母が寝室へ入ってしまうまで、私はその後ろ姿を目に焼き付けるように見つめた。
そして、深く深く頭を下げる。
(お父さん、お母さん。今まで育ててくれて、本当にありがとうございました。)
(何の相談もせずに、遠くへ行ってしまうこと…本当に申し訳なく思っています。)
(でも、ちゃんと幸せになるので、安心してください。)
(リカ様の傍にいれれば、幸せだから。)
あえて、手紙は遺さない。
言葉では伝えきれないから。
私はにじんだ涙をぐいっと拭うとパジャマに着替え寝室でサタン様を待つ。
すると、窓辺に黒い影が2つ現れた。
緊張で、体がふるえる。
ジッとしていると、窓ガラスを通り抜けてサタン様と死神が入ってきた。
「…ひとつ、訊きたいことがあります。」
サタン様は、赤い瞳で私を見下ろす。
「魂になった後、服に着替えられますか?」
訊ねながら、お気に入りの服を見せた。
「…ぷっ。」
呆気にとられる死神の横で、サタン様が小さく吹き出す。
「どんだけ深刻なこと訊かれるかと思ったら…。」
小声で言いながら、サタン様はお腹を抱えて笑った。
「いいよ。行ってすぐは汚れるから、俺が持ってってあげる。」
私から服を受け取りながら、サタン様が悪戯な笑みを浮かべる。
(汚れる…?)
「で、死に方の希望ある?」
(し…死に方…。)
遠慮のないストレートな言葉に戸惑いながら、私はサタン様と死神の二人を交互に見た。
「明日、発見した両親が…ショックを受けない姿であれば…。」
私の言葉に、サタン様が頷く。
「なるほど。んじゃ、ベッドに寝て。」
言いながら私を見つめる赤い瞳が、妖しく光った。
その瞬間、自分の意思で体が動かなくなる。
サタン様に操られるように私の体は勝手に動き、ベッドへ横たわった。
綺麗に掛け布団をかけながら、サタン様は死神に視線を流す。
すると、死神はすっとこちらに近づき、私の首に大きな鎌を当てた。
(こ…怖い!)
(このまま首を切られたりしないよね?)
(痛くないよね?)
私がふるえながらギュッと目を瞑った瞬間、体の奥をずるりと引きずり出される感じがする。
「っあ!」
小さく声をあげると同時に、ものすごい勢いでどこかへ吸い込まれた。
あたりは暗闇で、何も見えない。
昇ってるのか堕ちているのかも、わからない。
独りで未知の世界に向かうことに、不安が膨らんだ。
けれど、その時、リカ様の顔が脳裏に浮かぶ。
(そうだ、ここを堪えたら、リカ様のいる神の国に戻れるんだ。)
私は、自らを励まし奮い起たせる。
「リカ様!」
名前を呼んだ瞬間、ジャボン!と液体の中に落ちた。
ぬるぬるした感触のどろっとした生暖かい液体は、鉄と脂の臭いがむせ返り、気分が悪くなる。
ようやく暗闇に目が慣れてくると、辺り一面赤黒い中に大勢の人が蠢いていることがわかった。
「ここ…もしかして、血の池?」
不気味な光景に、思わず息をのむ。
(なるほど…。)
(汚れるって、こういうことか…。)
(名前だけじゃなくて、本当に血液の池なんだ…。)
「サ…サタン様!」
あまりの恐ろしさに、助けを求めるようにサタン様を呼んだ。
けれど、サタン様の姿はどこにもない。
代わりに、赤い瞳の悪魔がわらわらと現れた。
「サタン様を知っているとは…おまえ、何者だ。」
低く唸るように言われ、まわりをぐるりと取り囲まれる。
(…サタン様、早く来てーっ!)