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短編集19(過去作品)

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 葬儀も終わり、バタバタした毎日を過ごしていた両親も、初七日を過ぎたあたりから、普段の生活を始めた。それまで、あれだけ悲しんでいたのが嘘のように、振舞っている。子供心に、
――弟のことを忘れてしまったのだろうか?
 と思ったのも無理はない。
 二重人格かも知れないなどと感じたことも事実で、今であれば気丈になったのも分かるし、二重人格ではないことも明白だ。しかしその時はそう思ったことで、自分も二重人格だと思い込んでしまった。ひょっとして自分が躁鬱症じゃないかと思い始めたのはその頃からだったのだろう。
 しかし、その時の両親は違っていた。泣くだけ泣いて、苦しむだけ苦しむことで、それ以降の生活を普通に過ごせるように考えたのかも知れない。少なくとも私のことを考えて、いつまでも悲しんではいられないと感じてくれていたのだろう。そんなことも分からなかった私は、
――なんて薄情な親なんだ――
 と浅はかな考えしかなかった。
「そういえば、翔太は亡くなる前、自分が死んじゃうんじゃないかって言っていたっけ」
 父が私に話してくれた。翔太とはもちろん私の弟である。
「あの時、もっと真面目に聞いてあげてればって思って、お母さんはそれで悲しんでいたんだよ」
 自分が死ぬ夢を見れば、本当に自分の死が近いことを暗示していると言われるが、それを友達から聞かされて頭から離れなくなったのは、父から弟のことを聞かされたからであろう。
 私はいつも自分中心の考え方でいる。そのためか自己暗示に掛かりやすいタイプでもあるようだ。都合よく自分に思い込ませる。そういう無意識な気持ちが働いているのだ。
 芸術家肌というのは、どうしても考えが、自分中心になってしまう。なぜなら芸術というものが創造するものであり、感性なるものの賜物で、それを作り出すためには、自分の世界を形成しなければならないだろう。自分の世界では集中できることが一番で、世界をいかに広くして、余裕のある創造ができるかが、芸術家の芸術家たるゆえんだと思っている。
 そして多重人格であることが必要ではないかとも考える。それがゆえに「変わり者」という目で見られることもあるかも知れないが、私は、
――芸術家肌が変わり者だと言われるのなら、変わり者でいい――
 と思っている。なぜならその他大勢ではなく、個性があるのだと感じることができるからだ。言いたいやつには言わせておけばいい、所詮そんなやつらに、芸術家肌の連中の真似などできっこないのだ。
 しかも芸術家肌というのは頑固だと思っている。自分の信念を曲げない、人に何を言われようとも貫く信念、そんなものが必要なのだ。
 こうやってみると、ふと考えてしまう。自分がこういう考え方だから芸術家肌だと思っていたが、ひょっとして逆ではないかと。芸術家肌になりたいので、こういう考えに到っているかも知れないと感じることもある。たまに自分中心の頑固な考えが怖くなる時があるが、それがふと考える時のようである。
 頑固な私ではあるが、気持ちの中で怖がっているのかも知れない。それがよく見る「自分が死ぬ夢」ではないだろうか。最初は親から聞かされて、
――そんなことあるもんか――
 という思いが強く、気にしすぎているせいか、自分が死ぬ夢をよく見るようになった。しかも最初は自分が傍観者で、処刑されている人の顔を見て、それが自分であると悟ったところで終わる夢だったはずだ。しかし、最近は自分が主人公でギロチンに掛けられたり、目の前に輪っかになった太い綱を見せ付けられて、身体中から噴出す汗を夢の中でも感じるといった生々しい夢を見ることが多い。きっとそこが臆病な証拠なのかも知れない。
 最初は、迷信だと思いながらも、
――僕が絶対にそんな夢は見ないぞ――
 と思っていたはずだ。それが意識しすぎて見るようになる。それでも信じられないことだという潜在意識があるので、見ているのは客観的な自分であり、実際に処刑されているのが自分であると気付く。その瞬間に目が覚めるのだ。夢としては怖い部類のものだが、ノーマルな夢である。
 絶対に死ぬことはないと思える理由に、意識して見る夢だという気持ちがあるからだ。予感のようなものではなく、意識過剰が見せるものなら迷信も通用しないだろうと考えている。どこにそんな根拠があるというのだろう。気休めというものだ。
 しかし、当然のことながら死ぬことはない。
「気がついたら死んでいた」
 などという笑い話もあるが、死んでしまってから思っても、今の私の延長で考えることはできないのだ。もし、後世があったとしても、その記憶を持っていくことは不可能なのだ。なぜって? 今の自分は前世というものが分からないからである。
――夢というのは、前世が見せるものだとしたら――
 それこそ夢の続きは、
「気がついたら死んでいた」
 ということになる。その潜在意識のないことが、そこから先の夢を見せないのかも知れない。
 生まれてからしばらく記憶がないのは、前世の記憶を封印するための時間ではないだろうか。新生児から物心が着きはじめる幼児期になるまでは、きっと頭の奥は封印されるものでいっぱいになっていることだろう。
 その間に人間形成がなされる。次第に個性が見えてきて、一人の人間が形成されていく。環境が大きなウエイトを占めているだろうが、持って生まれたもの、すなわちその中に少なからずの影響を与えているであろう前世の記憶が、封印されながら、潜在意識として身体に刷り込まれているのかも知れない。
 だが、どうかすると自分の物心がつく前の記憶が、ふいに現われるような時がある。それも何か鮮明にあるのだが、思い出す時は実際に自分が主人公の時と、子供を見ていてそれが自分だったという客観的な時がある。
――夢の中で見るのだろう――
 そんな気持ちになるのも当たり前で、後から着いてきた記憶なのかも知れない。しかもその内容は過激なもので、なるほど忘れたくても記憶の奥に眠っているものが、夢であれば出てきても仕方のないものかも知れなかった。
 とにかく私は悲しかった。子供が感じることができるかどうか分からないが、とにかく泣いていたのだ。気持ちよく寝ていたい幼児の頃に、けたたましい音とと叫び声で目が覚める。それはいつものことで、
「また始まった」
 と思い知らされている。
 ものが割れる音が聞こえる。乾いた女性の悲鳴が聞こえる。その場が夫婦喧嘩であることはすでに明白で、そのたびに、その場から逃げたくなる衝動に駆られる。身体は子供なのだが、気持ちや感覚は大人になっているのである。夫婦喧嘩の内容がどうやら私のことのようで、父親とは血の繋がっていないことをもめているようなのだ。
 母親の連れ子である私を、父親はあまり嬉しくないのだろう。職人気質の父親は、純粋に母だけを愛していたのであって。私は邪魔者なのかも知れない。
作品名:短編集19(過去作品) 作家名:森本晃次