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短編集19(過去作品)

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時空を超えた妄想



               時空を超えた妄想

 揺れというものが、これほど睡魔を誘うものだということを、今まで私は知らなかった。不規則な勤務体制、それにより睡眠時間の感覚が、だいぶ麻痺していることは自覚していた。
 私の名は米村雄三、ソフト開発関係の会社に勤めるサラリーマンである。
 三交代での勤務体制、通勤には電車を使う。都会の会社に通勤するための通勤時間は一時間を越える。電車の中で睡魔に襲われても不思議のないことだ。
 しかし襲ってくる睡魔は、仕事が終わって疲れている時ではない。これから仕事に行こうとする時で、それも夜勤に出かける時なのだ。
 他の連中の仕事が終わり、家路につこうとしている時間帯、それも午後十時頃というと、一杯呑んで帰っている連中とちょうどぶち当たる時間でもあった。
 最初の頃は、
――鬱陶しいな――
 という思いで目を逸らしながら歯を食いしばっていたのだが、最近はわざと無視するように目を瞑っていることが多くなった。それでも睡魔に襲われることなどなかったのだ。いつ頃から睡魔に襲われるようになったのか、考えてみれば不規則勤務に身体が慣れて来た頃だっただろう。慣れてきたからというわけではないのだろうが、緊張感が緩んでいることには違いない。
 ゆりかごのような揺れではなく、規則的な揺れでもない。いつも味わっている揺れであって違和感のない揺れなのだ。これのどこから睡魔に襲われる理由があるのか分からないが、間違いなく私の身体に適合しているようである。
 気がつくと目が覚めている。それも揺れによって覚めるのだから、何と皮肉なことだろう。今まで乗り過ごしたことがないのが不思議なくらいで、一応、意識はしっかりしているのかも知れない。
 そういえば、目覚ましを掛けていても鳴る前に起きる体質ではあった。
「羨ましいぜ、俺なんて目覚ましを掛けていても無意識に切ってしまうことがあるくらいだからな」
 そう言って苦笑している同僚がいた。私の目敏さに感心しているのであるが、
「熟睡できているのか?」
 と聞かれるが、
「ああ、夢はしっかり見るからな」
 と答えている。夢を見るということは、熟睡できているからであろう。
 夢とは起きる寸前の一瞬に見るものだと聞いたことがある。それを聞いたのは小学生の頃だったと記憶しているが、最近聞いたような気がするのは気のせいだろうか? それだけ感覚的に曖昧なのか、それとも印象に残りすぎて事あるごとに思い出すからなのか、はっきりとは分からない。でも、きっとどちらも間違いではないような気がする。
 熟睡しているから夢というのを見るのだが、その夢はどんなに長くとも、数秒での出来事らしい。確かに起きてから思い出そうとすると、あれだけ長いと思っていた夢が、目が覚めてくるにしたがって次第に短く感じられる。まるで立体が平面になるかのように、奥行きのようなものを感じなくなるのだ。
 肝心なところだけが残ってしまって、後は忘れていくのだろうか?
 いや、本当に肝心な場面だけが記憶から飛ぶのかも知れない。だから大スペクタクルも、覚めるにしたがって、薄っぺらい物語へと変わってしまうのだろう。
 夢というのは潜在意識が見せるものである。
 これはよく言われることだが、私も同意見だ。楽しいことや嬉しいことがあったので、
――今日はその夢を見るぞ――
 と意気込んでいても、結局見れないことが多い。それは意識過剰になっているために、逆に深層心理の中で、
――そんな簡単に思ったとおりに行くものではない――
 という思いが強いからに他ならない。
 これを潜在意識の成せる業と考えて、どこに無理があるのだろう。
 夢というのは夜の睡眠時間にだけ見るものではない。
 例えば居眠りをしていても見たりすることもある。学生の頃など、よく授業中に居眠りをして夢を見ていたものだ。受験生の頃など、夜型になった体は、昼の学校での授業に耐えられるものではなかった。決して睡眠に適した格好ではないのだが、黒板をチョークがこすれる音というのは睡魔を誘うものらしく、それなりに気持ちよくなってしまう。
 そんな時でも同じような夢を見る。大スペクタクルな話を見ることがあるのだ。
――こんな短時間でよくあれだけの夢を見れたな――
 と感じてはいるが、それでも目が覚めてくるにしたがって、同じように立体から平面に変わっていくのを感じる。
 夢は短時間でも見ることができるという。そのことが私を夢に対しての興味を持たせる結果となってしまった。
 夢を見ることに対して気になり出したのは、高校に入ってからだっただろうか。それまでは夢を見ても、学校のことや友達のことの夢を見るだけで、それ以上の発展性はなかった。
――ひょっとして見ていたかも知れないが、覚えていないだけだったのかも?
 そう感じ始めたのが最初だった。
 高校に入り、将来の夢を見ることが多くなった。それも大学生になった夢が多く、楽しい夢が多い。
 高校生活はそれなりに充実していた。バスケット部に所属していて、バスケットをやっている時は何もかも忘れられたからである。
 勉強もそれなりにがんばっていた。バスケをやっていなかったら、逆にあまり勉強に集中できなかったのではないかと思えるほどである。部活が私にとっての生活の中心ではあったが、それが喝になったことは間違いないようだ。
 かといって私はそれほど器用なタイプの性格ではない。一つのことに集中すると他のことが見えなくなり、しかも頭の切り替えもそれほど得意とはしていない。それでも成績がそれほど悪くなかったのは、よほどバスケとのリズムがよかったとしか考えられない。
 一日二十四時間が、もし二十三時間だったり、二十五時間であったりしたら、きっと生活はかなり狂っていたかも知れない。それは私だけに言えることではないと思うが、夢を見るようになってそのことを感じるようになった。
 睡眠時間が決まっていて、それによって生活が決まっているような気がしていた。それは高校時代までのことである。受験前の時も睡眠時間を最初に考え、それからタイムスケジュールを決めたものだ。しかし、行動パターンから生活を決めるようになるということを考えたこともなかったが、高校時代の夢の中で感じていた大学生活の楽しみは、そんなところにもあったのかも知れない。
 予感のようなものだ。
 大学に入って今度は高校時代の夢を見るようになった。高校時代の楽しかった時の夢が多く、バスケをしていることが多かった。
 私は夢の中では普段と性格が違うようだ。
 普段の私は自分で言うのも何だが、冷静沈着に見えるようだ。悪く言えば冷たく見えるらしい。
 もっとも最初から意識があったわけではない。中学に入るまではあまり自分の性格について考えることはなかった。考えていたのかも知れないが、それについて深く考えることはなかったのだ。
 小学生の頃から、普段であってもいつも考え事をしていないと気がすまないタイプの少年だった。
 考えていることは小学生の頃ではそれほど大したことも考えていない。何しろ経験が浅いこともあり、ある程度考えていると、また同じところに考えが戻ってきたりする。
作品名:短編集19(過去作品) 作家名:森本晃次