鏡の中に見えるもの
第一章 久志の夢
遠山久志は、最近あまり熟睡することができなくて悩んでいた。元々眠りが深い方ではなかったので、たまに熟睡できればそれでよかったのだが、その熟睡がほとんどできなくなっていた。
――前に熟睡できたのはいつだったんだろう?
ベッドに入り、何度も寝返りを打つ、そうしなければ寝付けないからだ。
「寝返りを打っているうちにいつの間にか眠っている」
それが久志の睡眠だった。
目が覚めると、身体に汗を掻いている時は、ある程度の深さの睡眠を得られた時だ。覚えている覚えていないを別にして、夢を見たからだと本人は思っている。覚えていない方が多い夢だが、
――自分だけではないんだろうな――
と思っていた。
怖い夢ほど覚えていたりする。そのため子供の頃は、
――僕は怖い夢しか見ることができないんだ――
と真剣に悩んだものだ。
その頃から、眠ることに少し怖さを覚えるようになった。夢を見ると怖い夢しか見ないのだったら、眠ること自体に恐怖を感じる。だから、熟睡できなくなってしまったのかも知れない。
熟睡できなくなったのは突然ではない。元々眠ることが怖いという思いがあり、それが少しずつ蓄積していった結果が、熟睡できなくなってしまったということに繋がってくるのだとすると、物事には必ず結果というものがあれば、それに繋がる原因があってしかるべきなのだという理屈に行き着く。今の自分が熟睡できない原因は分かっている。しかし分かっていても解決方法があるわけではない。真剣、体調を崩す前に、神経内科にでも行ってみようかという思いが頭をよぎったのも事実だった。
久志は数少ない覚えている夢の中で、同じ夢を見たという意識もあるし、さらに、夢の続きを見ていたという意識もあった。中学の頃にその話を友達にすると、
「そんなこと、俺達にはないぞ」
と言われて、久志一人が他の人と違うと考えを持っているというレッテルを貼られるきっかけになった。
しかし、いつも見るのが怖い夢で、怖い夢こそもう一度見てしまうという話をすると、友達の中には、
「確かにそれは分かる気がする。怖いものほど気になってしまうものだから、もう一度見てしまうという理屈も一理ある気がするな」
と言ってくれる人もいた。
ただ、それはあくまでも少数派、久志の「変わり者」というレッテルを剥がすだけの理由にはならなかった。変わり者が久志だけではないというだけのことだからである。
久志が本当に熟睡できなくなったのは、三十歳を超えてくらいからだろうか。今は三十五歳になっているので、結構時間が経っているような気がするが、二十歳代に比べて三十歳代は驚くほど時間が経つのが早い。したがって気が付けば五年なんてあっという間だった。熟睡できなくなったのがまるでここ一か月くらいに思えるのは、そのせいなのかも知れない。
三十歳になる頃までは、ベッドに潜り込めば、いつの間にか寝ていたというのが普通だった。気が付けば朝になっていて、目覚めも悪くはなかった。一応アラームはセットしているが、アラームで起きることはあまりなかった。目覚めがいいのは、アラームで起きるからではなく、自然に起きるからだった。ただ、本当に熟睡できていたかどうかというのとは別問題である。果たして熟睡できていたのだろうか?
たまにアラームが鳴るまで眠り続けていることがある。アラームで強制的に起こされると、目覚めは最悪だ。頭痛がして、そのまま目が覚めても残ってしまい、会社に着く頃まで頭が痛かったりする。仕事が始まると頭の中を切り替えて集中するので頭痛は気が付けば引いているが、それまでの朝の時間は、頭痛のせいで最悪である。
ただ、その時が熟睡していた時だということに、久志は気づいていなかった。たまにしか熟睡したという意識がないのだから、頭痛がする時、まさか熟睡できているなどと思いもしない。人間の身体というのはつくづく神秘的だということに、その時の久志はまだ気づいていなかった。
理屈から考えればすぐに分かることだった。熟睡しているから強制的にしか目を覚ますことができない。それだけ深い眠りに就いているということだ。
しかし、深い眠りというのはどういうことなのだろう?
本当に夢の世界というものがあって、その世界に落ち込んでしまって、呼び戻されるまで気が付くことはない。つまりは自分の意志ではどうすることもできないということなのか。
夢というのは、潜在意識が見せるものだという。潜在意識は自分の意志とはまったく別の場所にあり、意志が働いている時には、潜在意識は読んで字のごとく、存在を心の内に潜めているものなのだろう。
逆に潜在意識が働いている時は、自分の意志はまったく働かない。だから、夢の世界は現実とはまったく違った次元のもので、目が覚めるにしたがって忘れてしまうのもとして頷けるというものだ。
久志は自分の夢の中で、
「今夢を見ているんだ」
と、感じたことが以前にあったような気がしている。
しかし、後になって夢というのが潜在意識のなせる業であり、自分の意志とは相まみれないものだということに気が付くと、感じたこと自体が、
「錯覚だったんだ」
と、自分に言い聞かせていた。
覚えている夢の中で、全体を覚えているような夢はほとんどなかった。
一番多いのは、最後の夢から覚める直前のことだ。怖い夢というのは、最後に強烈な恐怖を感じることで、一気に現実に引き戻される。いや、強烈な恐怖を感じることで、
「これは夢なんだ」
と、自分に言い聞かせることで、本当に夢だということを感じた瞬間、一気に目を覚ます。目を覚ました瞬間、夢の中でこれが夢だと感じたことは忘れてしまっている。目が覚めてから、
「夢でよかった」
という思いを思わず口にしている自分に気づき、身体の震えや、身体から溢れる大量の汗、そして極度の疲労感から今度は解放されたいと感じるのだ。
かと思えば、夢の最初の方を覚えていることもある。
もっとも、それは稀なことであり、圧倒的に目が覚める前の方が多いのだが、夢の最初の方を覚えている時、それが怖い夢だったのかどうか分からない。
――一気に目が覚めて、これだけ身体に疲労感が残っているのだから、怖い夢だったに違いない――
と自分で思っているだけだった。
夢の最初を覚えている時、夢のはじめにすべての謎が集約されているのかも知れないという考えに至ったのは、最近になってからのことだった。夢の最初を覚えている時の共通点として、いつも誰かが夢の最初に現れる。今までそれを確認することができなかったので、その人の存在自体、目が覚める時には覚えていない。ただ、夢の最初だけ、記憶として残っているというだけの感覚がずっと続いていたのだ。
夢の最後を覚えている、いわゆる「怖い夢」を見た時にも、誰かの存在を意識していた。その誰かというのは、最初から分かっていた。ここで敢えて「誰か」と表現したのは、自分の中で認めたくないという思いが強かったからだ。
――もう一人の自分――
認めたくない「誰か」というのは、もう一人の自分なのだ。
なぜ認めたくないかというと、