②全能神ゼウスの神
恋愛と親愛
冷たいものが額に置かれ、私の意識が覚醒する。
重い瞼を持ち上げれば、ぼんやりと明るい景色が目に入った。
やわらかな木漏れ陽が降り注ぎ、可愛い小鳥のさえずりが聞こえる。
(…ここは…。)
頭を動かすと、額から何かが滑り落ちた。
(タオル?)
タオルは芝生の上に落ち、どうやら私もその上に寝ているようだ。
「気がついた?」
低い無機質な声が耳元で聞こえ、その声の方をふり返る。
すると、驚くほど近い距離に、金色の瞳があり鼓動が跳ねた。
(…ゼウス…様!)
声を出そうとしたけれど、酷く掠れて出ない。
そんな私に、ゼウス様の瞳が柔らかく半月になった。
「ん。」
初めて見る微笑みに、私の鼓動が激しくなる。
(ゼウス様、ご無事で良かった!)
私の瞳から涙がこぼれると、ゼウス様の口許が弧を描き、瞼がいっそう細められた。
「それは、こっちのセリフ。」
言いながら、シャツの袖で私の涙を拭ってくれる。
「おまえが無事で…ほんとに良かった…。」
安堵の吐息まじりに囁かれ、私の瞳からは更に涙がこぼれ落ちた。
「水、飲む?」
ゼウス様がペットボトルの蓋を開け、私へ差し出す。
私は身を起こそうとするけれど、力が入らない。
「そか。」
ゼウス様は蓋を閉めると、ペットボトルを地面に置き、顎に手を添えて悩む。
「今は私の力もMAXだから、触れてもおまえの力を奪っちまうことはないんだけど…おまえ…触られんの怖いだろ?」
(…ゼウス様なら、大丈夫かも…。)
「?そ?」
ゼウス様は小さく首を傾げると、私の背にそっと腕を差し込んだ。
「嫌だったら、すぐ離すから。」
言いながら、ゆっくりと抱き起こしてくれる。
ゼウス様のあたたかい腕に抱かれて、私の鼓動が痛いほど高鳴った。
思った以上に逞しい胸に力強い腕。
ふわりと香る甘い香りを嗅いだ瞬間、体を甘い歓びが駆け巡り、背筋がふるりとふるえた。
「やっぱ、怖いんだろ?」
ゼウス様はそっと私を芝生に寝かせると、立ち上がる。
「ストロー取ってくるわ。」
言いながら踵を返し、あっという間に足音が遠ざかった。
離れたぬくもりを、静かな森にそよぐ少し冷たい風に冷やされ、心細さで体がふるえる。
(ここ、どこ?)
寂しさにあたりを見回すと、見覚えのある泉が目に入った。
(もしかして…御祓の泉?)
その瞬間、心臓が嫌な音を立てる。
(や…やだ!還りたくない!!)
「還すんでここに連れてきたんじゃねーよ。」
草を踏みしめる足音が近付いてきたのでそちらを振り向くと、ゼウス様がストローを持って立っていた。
「ここは、最上級のオーラに満ちた聖域だから。おまえを救うには、ここしか思いつかなかった。」
全能神以外は立ち入り禁止の聖域。
(そんなとこに、私は居ていいの?)
(ゼウス様のためのオーラを、私なんかが…。)
「おまえのおかげで、私は命拾いしたから。」
ゼウス様はペットボトルにストローを差し込むと、私の口許に持って来る。
(ありがとうございます。)
お礼を言いながら私はそれを咥えると、水を吸い上げた。
(おいしい…。)
「ん。」
嬉しそうに微笑むゼウス様に、私は違和感を覚える。
「笑って…大丈夫なんですか?」
(あ、声が出た。)
水で潤った喉から、痰が絡んだガラガラ声ながらも声が出た。
「ここは、全ての時空から遮断された場所だから。宇宙に影響しない。」
私はゆっくりと身を起こす。
「じゃあ、ここならゼウス様は自然体でいられるんですね。」
私の言葉にゼウス様は目を大きく見開くと、眉を下げながら困ったように笑った。
「なんでおまえが、それをそんなに喜ぶんだよ。」
色んな表情を初めて見ることができ、私の鼓動がどんどん高鳴る。
「…星…あの蒼い星はどうなったんですか?」
鼓動の高鳴りをごまかそうと話題を変えると、ゼウス様はやわらかく微笑む。
「ああ。おかげで核戦争は終息し、汚染された土壌の浄化も、人々の心の傷の回復も順調に進んでいる。」
(良かった!)
大きな安堵の息を吐くと、ゼウス様が私に深く頭を下げた。
「おまえのおかげで、ヘラを守ることができた。本当にありがとう。」
そして、真っ直ぐに私を見つめる。
「私があのまま死ねば、ヘラも死んでいた。」
(ゼウス様は、いつでもヘラ様だけ。)
胸が、チリチリと痛む。
「ゼウス様にとって、ヘラ様はどういう存在なんですか?」
思わず口をついて出た問いに、私もゼウス様も驚いた。
(しまった…つい…。)
触れてはいけないところに土足で踏み込んでしまった自覚に、私は慌てて頭を下げる。
「すみません!余計なことを」
「ヘラを…私は愛してる。」
私の言葉を遮って、ゼウス様がハッキリと答えた。
(…やっぱり、そうなんだ…。)
なぜかキリキリと痛む胸に私がそっと手を当てると、ゼウス様がふっと息を吐く。
「…て答えたら、正解?」
「え?」
(どういうこと?)
私がゼウス様の金の瞳を見つめながら首を傾げると、ゼウス様はあぐらに頬杖をついた。
「『愛』って、よくわかんねーんだよな。」
言いながら、いつの間に持っていたのか、チョコレートを口に放りこむ。
「『恋愛』と『親愛』って、どう違うの?」
突然出された哲学的な質問に、私はゼウス様から目を逸らした。
うーん…と考えて、ひとつの結論にたどり着いた私は、再びゼウス様の金の瞳を真っ直ぐに見る。
「『恋愛』も『親愛』も、相手を大事にしたい、失いたくない、って気持ちは一緒だと思います。でも、『恋愛』はその気持ちプラス、相手の全てを知りたくて、独占したくて、触れたくて…触れられると鼓動がどうしようもなく高まって、胸が甘く切なく締め付けられて、でも幸せな気持ちで満たされる…。それが『親愛』との違いだと思います。」
私の答えに、ゼウス様は「ふ~ん」と言いながら、私の口にチョコレートを押し込んだ。
「…甘い。」
私の頬がゆるむと、ゼウス様がイタズラな笑顔を浮かべる。
「甘く切なく締め付けられた?」
からかうような口調に、私は頬を膨らませた。
「チョコレート、確かに大好きですけど、親愛レベルです!」
すると、ゼウス様が声をあげて笑った。
低く艶のあるその笑い声に、私の鼓動がとくとくと甘く高鳴る。
「なるほどね。なんか、わかったよ。」
ゼウス様はもうひとつ私にチョコレートをくれると、自分も口に入れた。
「じゃあ私はまだ、恋愛ってものをしたことがないな。」
(え!?)
「確かにヘラのことは失いたくないし、命懸けで守りたいと思う。けど、おまえが言ったような、ヘラの全てを知りたいと思わないし、まぁ変なヤツには渡せねーけど、ヘラを大事にしてくれるヤツなら託せるし、別にヘラに触れられても鼓動が高まらねーし、甘く切なく締め付けられもしねぇ。…まぁ、撫でると幸せな気持ちにはなるけど…欲情はしねーな。」
うんうんと頷きながら、ゼウス様はもうひとつ、チョコレートを食べる。
「…今まで、欲情したことないんですか?」