②全能神ゼウスの神
陽の城へ行ったときと違い、部屋を出てすぐに角を曲がった。
すると、そこは薄暗い細い廊下だ。
「ほんとにこっち?」
私が訊ねると、陽は足を止め、肩越しにふり返って、冷ややかに睨む。
「彼氏疑うって、どうよ?」
言いながらこちらに向き直る陽に、私は警戒心を剥き出しにして距離を取った。
「おまえ、ゼウス様に乗り換えたの?」
(!?)
思いがけない言葉に目を見開くと、陽は嘲るように笑った。
「尻軽女。」
そう吐き捨てると、また私に背を向けて薄暗い廊下の奥へ向かった。
(そういえば…もう陽に恐怖は感じても、ときめきは感じなくなってる…。)
(…確かに、尻軽って言われても仕方ないか…。)
(もう陽とは、終わりかもしれない。)
(還っても、陽へ愛情を持てるかどうかわからない。)
「ごめん、陽。」
白い大きな羽根を広げたその背に謝ったけれど、陽は何も言わず廊下に靴音だけを響かせる。
私は唇をぐっと噛みしめながら、改めて決心した。
(いや、もう私は還らない。)
(ここで、ゼウス様の為に力を使い果たして、消えよう。)
拳をぐっと握りしめた時、陽が突き当たりで止まる。
陽の後ろから顔を覗かせると、恐ろしげな雰囲気の黒い扉がそこにあった。
「ここが、プロビデンスの間?」
私が訊ねると、陽は答えないまま、その扉を開け放つ。
その瞬間、恐ろしい呻き声のような轟音が聞こえた。
(なに…この音…。人の声?)
室内は真っ暗で、床があるのかもわからない。
部屋の中心に星らしき球体があり、それを見下ろす形で、ゼウス様とサタン様が宙に浮くように立っていた。
その後ろには、多くの天使や悪魔がいる。
(こんなにたくさん、いたんだ。)
けれど明らかに神の国の人たちとわかる中に、ゼウス様だけは生身の人間のような姿だ。
(全能神は、何も持たないの?)
現実離れした光景に足が竦む私を置いて、陽が迷いなく室内に足を踏み入れる。
(床!床あるの!?)
そう思った時、靴音が響き、床がきちんとあるのだと私は胸を撫で下ろした。
私も陽について、室内に入る。
背中で静かに扉が閉まると、室内は暗闇に包まれ、中央に浮かぶ星の美しい蒼い光が際立った。
「どこ行ってたんだよ、ミカエル。」
サタン様が睨むように陽へ視線を向けた瞬間、その赤い瞳で私をとらえる。
「フェアリー!」
その言葉に、弾かれたようにゼウス様が顔を上げた。
その姿は室内の闇に溶け、黒い瞳に蒼い星がハッキリと映っている。
最初に出会った時と同じ、真っ黒な髪と瞳になったゼウス様は、陽をふり返るとその表情を歪ませた。
「き…さま!」
室内に轟く呻き声に紛れるように呟かれたけれど、ハッキリと私に聞こえる。
「ゼウス様。心を乱していいんですか?」
嘲るように冷笑を浮かべる陽を、ゼウス様は黒い瞳に獰猛な光を宿して睨み上げた。
「ほら、あなたが怒るから、あの国が消えましたよ。」
陽の言葉に蒼い星を見ると、破裂したような赤黒い煙をあげている場所が目に入る。
「ゼウス様が笑えばこの宇宙は常春になり自然の淘汰がなくなり生態系や宇宙の循環が乱れる。悲しめば、氷河に覆われ、宇宙が死に絶える。怒れば、ほら、星が爆発する。」
面白そうに紡がれた言葉に、私がもう一度蒼い星を見ると、その星が真っ赤な炎に包まれるのが見えた。
(だから、ゼウス様はいつも無表情で無機質な瞳をしていたんだ!)
私は無意識に駆け出すと、そのままゼウス様を抱きしめる。
その瞬間、身体をこわばらせたゼウス様を、眩しい光が包み込んだ。
それと同時に、私の体の奥からなにかが勢いよく吸い取られる感覚に襲われる。
それはどんどん体から奪われていき、頭の芯がぼうっとし始めた。
(身体に、力が入らない…。)
意識が朦朧としてきた私は、そのまま床に崩れ落ちる。
「めい!」
ゼウス様が呼ぶ声が聞こえるけれど、もう声を出す力もない。
さきほどまで鳴り響いていた轟音と呻き声が聞こえないのは、私の意識が朦朧としているからだろうか…。
ぼんやりと考える私の耳に、陽の声が聞こえた。
「終息か…。」
それに応える、サタン様の声も聞こえる。
「すげー…。一瞬で終わった…。」
(終わった…って、どういうこと…?)
(あの星は…。)
ゼウス様を見上げると、その姿は暗闇にもくっきりと浮かび上がる、神々しい白銀の髪と金色の瞳に戻っていた。
「めい!このバカ…!」
声を荒げながら、ゼウス様が私の傍に膝をつく。
(良かった…ゼウス様…無事だ…。)
(…初めて…怒鳴られた…。)
私は震える頬で笑顔を作ろうとしたけれど、そのまま意識を手放した。
(このまま、消えるのかな…私。)