②全能神ゼウスの神
フェアリー
「んじゃ、行くか。」
突然立ち上がるゼウス様に、私は驚いて見上げた。
「どこに?」
すると、さも当然といった様子で、ゼウス様は裏口の扉に手を掛ける。
「御祓の泉。」
「…何しに?」
「還るために決まってんだろ。」
「…え!?」
私だけでなく、ヘラ様も驚きの声をあげた。
「さっきもミカエルんとこで言ったけど、私はおまえがまたどんな目に遭おうと、それで帰って来るはめになろうと、どうでもいい。」
氷のように冷ややかな眼差しで見下ろされ、胸がズキンと痛む。
「ただ、これ以上の長居は無用」
パンッ!
軽い音と共に、ゼウス様の白い頬が赤く染まった。
珍しく、ゼウス様が驚きの表情をハッキリと浮かべている。
「…ヘラ…。」
そう、ヘラ様がゼウス様の頬を叩いたのだ。
「言っていいことと、悪いことがあるわ。」
いつになく厳しい声色で、ヘラ様がゼウス様を見上げる。
「きっと、めいさんの為に何か隠していて守ろうとしてるんでしょうけど、そういうやり方はダメよ、リカ。」
(…リカ?)
(ゼウス様の…真名?)
ゼウス様は苦しげな表情で、ヘラ様から視線を逸らした。
(いつも無表情のゼウス様が、こんな表情するなんて…。)
ヘラ様が、赤くなったゼウス様の頬をそっと撫でる。
「リ」
ヘラ様が言いかけた時、ひとりの天使が飛び込んで来た。
「ゼウス様!!!」
あまりの剣幕に、私たちは一斉にそちらをふり返る。
「急ぎ…急ぎプロビデンスの間へ!!」
ゼウス様は天使を一瞥した後、小さく舌打ちした。
「間に合わなかったか…。」
そしてゼウス様は私を静かに見つめ、ヘラ様に向き直る。
「姉上。」
(姉上。)
その言葉に引っ掛かりを覚えながら、ゼウス様の横顔を見上げた。
「何があっても、誰が来ても、めいは渡さないでくれ。『もう還った』と言い張って。」
ヘラ様は黙って頷く。
するとその小さな頭に、ゼウス様は大きな手を乗せ、愛しそうに滑らせた。
そして『隠れていろ』と念をおすように私を一瞥すると、踵を返して部屋を出て行く。
シンと静まり返る室内。
ヘラ様は小さく息を吐くと、テーブルの上のお皿やカップを片付け始めた。
私もそれを手伝って、キッチンへ運ぶ。
袖を捲って洗い物をしようとすると、ヘラ様が私をふり返った。
「ここはいいので、めいさんはあの部屋へ。」
最初に来た時に案内された黄色い扉の部屋を、ヘラ様が指さす。
「きっと、ミカエル様やサタン様もこの神殿にいらっしゃいます。ゼウス様は、お二人を警戒されたのでしょう。ですから、ゼウス様のご指示通り、隠れていてください。」
私は黙って頷いた。
「ここを片付けたら、私もすぐそちらのお部屋へ行きますので。」
(独りにはしない。)
そう言われたようで、私の心はホッとする。
ヘラ様のやわらかな微笑みに、私も笑みを返すと素早く黄色い扉に身を滑り込ませた。
食器を洗う音が、小さく聞こえる。
その音を聞きながら、私がビロード張りの小さな椅子に腰かけたその時。
「めいは?」
陽の声が聞こえた。
私の体はびくりとふるえ、なぜか恐怖を感じる。
「先程、お還りになられました。」
ヘラ様がそう返すと、陽が冷ややかな笑い声をあげた。
「ほんとに?」
「ええ。」
間髪いれずヘラ様が答えると、陽がため息を吐く。
「そうか…では、仕方ないな。ゼウス様も、もうこれまで…ということですか。」
(…どういうこと?)
「どういう意味ですか?」
私の思いを代弁するかのように、ヘラ様が低く鋭い口調で訊ねた。
「N-350星雲AG6星で核戦争が勃発したんです。」
(!)
「今、ゼウス様が負のオーラを浄化されているけど、とても追い付かない。戦争は、普段信仰心のない者まで神に救いを求め祈るようになる。それに加え、神を恨む者まで多くなり、負のオーラが増幅する。核戦争は被害が甚大なぶん、特にそれが激しい…。だからゼウス様の暴露が甚だしく、浄化が追い付いていないんです。」
(ゼウス様…。)
「御祓の泉に行く時間もない。エサをどれだけ用意しても焼け石に水の状態で、遂に上質なエサすらなくなってしまった。」
(『霧散する姿を見たくない』)
(そう言ってたのに…ゼウス様。)
(今、どれだけ辛い思いをされてるんだろ…。)
「まず、あの負のオーラの増幅を落ち着かせないと、いくら私たち天使が正義を与えても阻まれ、サタンたち悪魔が悪意を吸い取ろうとしても洪水のように憎悪が溢れてくる。」
恐ろしい状態がリアルに想像できる陽の言葉に、私は自らの体をギュッと抱きしめる。
「けれど限界以上に暴露されてエサもない今、これ以上はゼウス様の力が枯渇し失われてしまう。そうなると…おわかりでしょう?」
陽の言葉に、心臓が縮み上がった。
ヘラ様もきっと同じように青くなっているのだろう。
陽はとどめを刺すように、盛大にため息を吐く。
「フェアリーの力があれば、ゼウス様の負担がなくなるのだけど…」
陽の言葉を最後まで聞かず、私は扉を開けた。
目の前には、長い巻き毛の黒髪に白い大きな羽根を広げた陽がいる。
私を見ると、サファイアの瞳が細められ、冷ややかな笑みが浮かんだ。
「いたの。」
わかっていたくせに、陽はわざとそういう言葉を口にする。
「めいさん、ダメです!ゼウス様が」
「そのお気持ちは、ありがたいです。」
私はヘラ様の言葉を遮った。
「なにをゼウス様が心配されているのかはわかりませんが、少なくともそれは私のことを思ってのことだとわかっています。」
ヘラ様が眉を下げる。
「意識不明とはいえ、私は死のうとしている身。今さら命を惜しむこともないじゃないですか。」
あえて明るく微笑んでみせると、ヘラ様の碧眼が潤んだ。
「それなら、ただ無駄に死ぬよりも、誰かの役に立って死んだほうが、誇らしいです。」
私はヘラ様に、深く頭を下げる。
「二度も、ゼウス様の指示を破らせてしまって、すみません。お世話になりました!」
そして素早く陽に向き直ると、そのサファイアの瞳を見上げた。
「連れて行って。」
陽はやわらかな笑顔を浮かべて頷くと、自然に私へ手を伸ばす。
「ありがとう。めい。」
けれど、触れられそうになった瞬間、私はサッと身をひいた。
「触ら…ないで。」
触られることが怖い、というよりも、触れさせてはいけない気がしたからだ。
さっき、ゼウス様と指が触れ合った時も、頭を撫でられた時も、ゼウス様の体が輝いた。
御祓の泉で魂の中にいた時も、泉の魂が虹色に輝いた。
もしかしたらフェアリーは、触れるだけで強い力を与えることができるのかもしれない。
それなら、ゼウス様が弱っているだろう今、陽にその力を与えてしまうようなことをしてはいけない。
そんな気がする。
素早く距離をとった私を、陽は明らかに不機嫌そうに見下ろした。
そして無言で身を翻すと、部屋を出て行く。
私はもう一度ヘラ様に頭を下げ、その背を追った。
大股で歩く陽に、私は必死に小走りでついていく。