Hellhounds
堂島は全てを諦めたように体をシートに預けると、天井を見上げた。すぐに両目から涙が伝って落ちた。
「うるさい……、もう限界なの。返して……」
「通報しないならな。それよりあんたさ。スケジュール帳に、誰にいつメールするとか予定を全部入れてんのか?」
駒井は堂島が目を逸らせたのを見て、助手席にスマートフォンを置いた。
「……ごめん。ほら、もう見てない」
「もう遅いってば」
堂島は呟くと、真っ赤に変色し始めた右手の痛みすら忘れたように、笑った。
「馬鹿みたいでしょ」
「何が?」
「その、スケジュールのやつ。でも、一日に何をするか全部入れとかないと、ずっと気になって落ち着かないんだ」
「どこまで入ってるんだ?」
駒井が思わず訊くと、堂島は右手の痛みを思い出したように顔をしかめたまま言った。
「朝起きてから、夜寝るまでの行動は全部入ってるよ。さっきから鳴ってるのは、全部それだね」
「そうなのかよ、おれはてっきり……」
駒井が言いかけた言葉を、堂島は自分を嘲笑うように補った。
「友達多いってさっき言ってたけど、わたし友達とかいないから」
「母親に○○は……の穴埋めは、何が入るんだ?」
「犬か、おばあちゃん。今日は、犬」
駒井はしばらく考えた後、言った。
「いや、『犬は元気ですか』はねえだろ。名前ないの?」
「片仮名で、サダハル」
駒井はしばらくスマートフォンを持て余したように眺めていたが、ようやく言った。
「気が済まないんなら、代わりに返信してやるよ」
「代理人だもんね……」
堂島は運転席に聞こえないギリギリの声でささやくと、パスワードを呟いた。駒井は母親と思しき連絡先にメールを送り、言った。
「送ったよ。父親の○○時は?」
「十八時」
駒井は言われたとおりにメールを送ってから、ふと気づいて言った。
「十六時に会って、十八時に家? すぐ帰るつもりだったのか?」
「別れるつもりだったから」
堂島はそう言って、自分のバッグに視線を向けた。駒井は自分の携帯電話が鳴っていることに気づいて、耳に当てた。武内からで、その声は焦っていた。
「カズ、そっちはどうなってる?」
「てんやわんやだよ。でも、財布はゲットした」
堂島が静かに笑った。駒井は形だけ睨みつけると、通話に戻った。
「そっちは?」
「蜂須のおっさんの思い通りには、なってる。ちょっと、電話取れるようにしといてくれよ」
「バッテリーがやばいんだ」
「とにかく、取れるようにしといて」
武内は、蜂須の悪運の良さを呪いながら電話を切って、思った。カズの野郎、バッテリーぐらいどうにでもなるだろうが。何が『てんやわんや』なのかは分からなかったが、こちらに比べれば何だって生易しい。三十分前に、車が入ってきた。それが殺し屋だと覚悟した武内はゴルフクラブを持って車の裏に隠れたが、現れたのは蜂須が待ち望んでいた前園という男だった。蜂須より頭一つ大柄な男だったが、長年生きてきて警戒心を持つということを忘れたらしく、武内は合図と共に、無防備な前園の膝裏をゴルフクラブで殴った。今は吉松と並んで、事務所に座っている。問題は、蜂須が問い詰めても全く口を割らないということだった。
「守秘義務がある」
その一点張りで、さっきから堂々巡りになっていた。蜂須は、前園の低い声を真似て馬鹿にしていたが、ふと腕時計に気づいて、言った。
「珍しい時計巻いてんな」
蜂須が近づいて手を伸ばすと、前園は一瞬頭を後ろに引き、蜂須の鼻頭に頭突きを食らわせた。蜂須は後ろにのけぞり、鼻血を流しながら武内の手からゴルフクラブを奪うと、振りかぶって膝に打ち下ろした。前園は歯を食いしばったが、それでもひと言も発することなく堪えた。
蜂須はティッシュを両方の鼻に詰めると、鼻声で愚痴った。
「どうなってんだこの連中は」
武内は思った。前園は警戒心がないのではなく、動じないだけの精神力を持っているのだと。
一定間隔でゴルフクラブの素振りが飛んでくる中、前園は思った。どうしても、会話の断片から事情が頭に入ってくる。あれだけ関わりたくなかったはずなのに、今となっては、ほとんど関係者も同然だった。そんな中で分かったのは、組織を裏切ったのが古野の方だということだった。逃がし屋を手配して逃げようとしたところを、部下の神崎に殺された。誰も事実を整理せず、結局、この神崎という男が命を狙われている。その理不尽さ。それは前園が昔から身をもって味わってきた苦さと、同じ味をしていた。
日が落ちたということを、栗野はアズサとの会話から知った。これで、三日目が終わろうとしている。
「お母さん、ほんと料理お上手ですね」
体の自由は利かなかったが、アズサが『囚人用』に作る手料理は簡素ながら味わい深く、この家に連れてこられてからの、唯一の楽しみになっていた。
「そんなに美味しいって何回も言いながら食べる人は、珍しいわ」
アズサはノートパソコンの真っ黒な画面を見つめながら、言った。栗野は箸を持っていない方の手で、ノートパソコンを指差した。
「ここまで放ってると、どうなってるかは正直分かりません」
「そうなの。じゃあ、わたしの見込みが外れたってことになって、はいおしまいってなるかもね」
アズサの言葉一つ一つには、それまでにやってきたことが重力のように纏わりついていた。栗野は繕うように言った。
「見てみないと分かりませんけど。確実じゃない。なんせね、ちょうど息子さんたちに捕まる前に、ちょっと危ない橋を渡っちゃったんですよ。お母さん、確実なお金が要るんでしょう」
「そうね。最終的には現金じゃないとね。うちは銀行は信用しないの」
アズサがそう言って笑うと、栗野も笑った。合わせて作り笑いを浮かべたのではなく、その考え方が気に入っていた。
「銀行ってシステムは、僕のような人間が考えついたんだと思いますよ。自分の金で飯は食っていかないと、決めた人間がね」
「へえ。あなたもそうなの?」
アズサは少し眠そうな目を向けた。栗野はうなずいた。
「僕に目をつけたのは、家族がいないからでしょう? 叩けば埃も出るし」
アズサは笑顔になると、栗野の目をじっと見つめた。
「探す人がいなければ、手間が省けるからね。人間、身軽すぎると却って危険なのよ」
「僕は、崩壊した家庭に育ちました。ギャンブル狂の両親で、家は借金だらけでね。借りたお金ってのは不思議なもので、返すまでは自分のものだと考えてしまいがちですが、実は違う。実際には、一秒の間も自分のものじゃない」
栗野はそこで一旦言葉を切ると、味噌汁を平らげて『ごちそうさまです』と言った。アズサがトレイを下げると、それが合図のように続けた。
「結局、両親は行方不明になって、今でも見つかってない。探す気にもなれませんがね。代わりに僕を育ててくれた人は『人から借りた金じゃなくて、自分で稼いだ金で堂々と飯を食え』と言ってましたが、それも性に合わなかった。編み出した結論はもっと短くて、『堂々と、人の金で飯を食え』です」
アズサは、本心からではなかったが、笑った。栗野の生き方が一つの解であることは間違いなかった。巡り巡って、さらに凶悪な犯罪者の目に留まることにはなったが。
作品名:Hellhounds 作家名:オオサカタロウ