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錆の雨

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その手首を強くにらむように見ていると、さらにおかしなことに空中と手首の境界線が移動している。私の肘の方に向かって進んでいるのだ。左の腕にあった大きなほくろが今、消えていく。消えた後には車内の風景がいつも通り流れ、電車の揺れによって、埃がゆっくり舞った。
 しばし、そのまま椅子に座っていると境目はとうとう肘を越した。私は自分が冷静に椅子に座っていることを一番不思議に思ったが、なぜだかこれが必然に思えたのだ。左の甲の異変からこうなることはきまっていた。
 どういうわけか時間の流れと共に侵食は進んでいく。もう左の肩付近まで来ている。途中、信号停車によって電車が停まったのだが、その時は侵食が止んだ。おかしなこともあるものだ。外はかなりの晴天であるのに。

 信号が変わり、ゆっくり加速すると侵食も同じように進みだした。それに私の意志は全く関与していない。とまれと念じてみても、停まる気配はないし、そもそも止めようとも思っていない。不思議なことだ。
 駅に着いたのか、ドアが開き、新鮮な空気と濁った空気が入れ替わる。押し出された濁った空気は窓の向こうで華麗に舞っている。私にはそれが鮮明な色をもって見えた。
 突然、思いついたように自分の服を確かめた。消失した左手。その上にはスーツを羽織っていたはずだが、それも一緒に消失していた。高い買い物を滅多にしない中で、珍しくかった高級品はどういうわけか一本の糸に解かれるわけでもなく、どこかへ消えていく。
 電車が停まっているからか、やはり浸食は進まない。代わりに乗り込んできた数人の人が私の付近の椅子を侵食し、私はその人たちを観察した。その人々は皆、自分の持ち物をみていて、私の変化に気づかない。
 私を見ても、左手を失った人がいる、としか思わないだろう。今は侵食が止まっている。むき出しになった絶壁の縞模様も、煌びやかに光る氷河の断面も、その一瞬には侵食の様子を見せない。静止した侵食を見ることはできない。近寄り、関心を持ってその断面を見れば、白くなった貝殻の半身や、内側のから融けだした純粋な水が作り出す氷塊の表面を見ることができるだろうが、人は関心を持つことはないだろう。私だけが侵食の真実を知っている。
 時刻になり、ドアが閉まるともう一度開いた。誰かが駆け込んできたのか、もしくは鞄が挟まってしまったのか。理由はわからないが、とにかく一定に進んでいた時間が一瞬止まった。
 もう一度ドアが閉まり、今度はそのまま閉じたまま電車は加速しだした。ゆっくりだが左腕の浸食も始まり、私はどんどん消えていく。もうじき左腕は終わる。ところどころにあったほくろを改めて視認し続けた。消失がなければ見ることもなかっただろうほくろ。いつできて、どんなものに触れてきたのか。
 駅間が広くなったのか、電車の速度が速くなったように感じた。向こうに座っている人も速度に負けて少しばかり体を斜めにさせている。通勤ラッシュ前の静かな最後尾車両は先頭車両に連れていかれている。抗うことは許されず、線路がさらに道を一つにさせていた。
 突然車体が揺れたのだが、どうやら駅直前の分岐路を通り過ぎたらしい。複数ある道の中で強引に一つの道を進むように強制されたのか。
 窓から見える空は早朝の淡い色合いではなく、コントラストがはっきりしだす昼頃のものに変わりつつあるため、赤い屋根の家とそばの蜂蜜色の家の違いがはっきりとわかる。黒い集団がさっと一瞬流れた。風によって大きく開かれた翼のようなものの内側がほんの少し灰色に見えるものもいた。
 
 見えていたものの位置が突然、がくっとずれた。顕微鏡に乗せたプレパラートがずれたような、そんな感じだった。
 私は眼鏡もかけていないし、眼前にそういうものが浮遊しているわけでもなさそうだった。それは電車がトンネルに入ったときに明示された。黒い粒子がガラスの隙間を埋めたように暗くなった窓に、私の姿が映ったのだが、それがどうもおかしいのだ。頭と首と胴体と、手足。大きな括りで分けられる部位たちがくっつく一つの私。左腕は消失してしまったので、映らないことはわかるが、私は窓に左半身がない「私」をみた。右半身に残る服や半分になった顔の特徴が覚えている自分のものと重なり、座る椅子の位置も確かに私だ。半身が消えている。
 そっと右手で左目付近を触ると空中の何かをつかむような感触さえせず、何の実感も湧かないまま右手は椅子の背を触った。ひねるようになってしまい、右の肩がぎいっと悲鳴をあげたのか、私は少し声を出した。
「あ」
 その小さく漏れた声で、さらにわかった。口も半分消えている。窓に確かに映っていたその消失を実感するのは自身を通してから。漏れ出した声はおそらく人間の言葉になっていないのだろう。誰もこちらをみない。漏れ出た声が小さすぎて聞こえなかった可能性もあるが、車内は妙に静かだった。走行音は別の何かに掻き消されたように滑らかになっている。
 消失した左半身から血は出ていない。車内の床は赤く染まっていないし、半分消えた口内に血の味はしない。代わりに車内の空気の味が少し鮮明になり、私はその味をひどく嫌っている。甘い砂糖の味を想像して、ひどい味を相殺させる。
 電車はさらに進んでいく。さっきよりは速度を落として、自然を切り刻まずに、まるで景観を楽しむようにゆっくり進んでいた。庭先で水を撒く女性の服の模様までよく見える。
 確かに見える。右目だけでもモノはよく見えた。その輪郭や色合いを微妙に変えていることに私は気づかない。誰も気づくことができないのだ。それほど左目の消失は自然と行われた。
 違和感を覚え、下を向くと右足がなかった。太ももの付け根まで進んだ侵食は次にどこに行くのか。じっと見ていると股間に至った。私の、大事な、部位が、人間の雄たる所以が消えていくのは、寂しく思えた。もうすぐ消失し、私は「人間」になる。雄か雌か、その区別は難しくなる。このことにどんな意味があるか、現代の人間は日常的に感じているかもしれない。その一方でそれに気づかず、これまでと同じ生活を繰り返す現代人を多く見てきた。
 


 そこからは早かった。「人間」になった私は幅の広い川を渡った。晴れた空を映した川面に映る電車に、私の姿は弱く残っていた。少し向こうの男性は新聞をとじて朝の川を見ている。白い鳥が一羽、枯れた木の上から飛び立ち川の中央で魚を一匹咥えた。
 電車は赤い橋を渡り、川を過ぎる。橋はところどころ錆びていて、その錆の破片が電車の走行振動によってはがされ空中を舞い、所々赤く見えた。雨は降っていないため、風に揺られて川面の上を永遠に飛び続けている。そこに電車が作った風が舞い込んできてさらに大きく錆を揺らした。重力と風が干渉せず、素直に落下した錆のいくつかは川の水に溶けてどこかに消え、人間の親子が川辺で魚を釣っていた。釣られた魚の知り合いが別れを一瞬惜しみ、その一瞬の後に、落ちてきた錆をプランクトンと共に吸い込む。愚かな魚はそのまま釣り針めがけて泳ぎ、そして一気に空中に釣り上げられた。
 錆はとても小さく、何もしない。魚の腹の中で何か役割が出てくることを願いながら、人間に捌かれて水道水でまた流されるのだ。

作品名:錆の雨 作家名:晴(ハル)