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錆の雨

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 匂いはきちんと感じられ、林檎の味もしっかりと以前のまま保たれている。ただ左手の抜け落ちた皮膚だけが異様なまでに視界に入り込み、正常になりかける私の精神をもう一度未知の世界に引きずり込むのだ。釣り上げた魚の針を外さずにもう一度海に放り投げ、また、釣り上げる。その時の魚の感情が少しわかった。魚に人間と同じ感情があれば、の話だが、私はそう思ったのだ。船に打ち上げるたびに傷が一つ、増えていくのだ。

 そういう異様な皮膚だが。驚くことがもう一つあった。誰もこの皮膚を見ることができないのだ。全人類のめんたまが腐ってしまっているのか、どんなに左手を突き出しても誰も不思議に思わないらしく、昨日ふと出した左手を見た学生は特になんの関心も示さず、こちらを一瞥した後手元のスマホに向き直った。
 誰にも見えないのだ。私だけが確実に知覚し、私だけがその皮膚の欠落の大きさを例えられる。

 異様な皮膚に感じていた、不安のようなものは消え去り、私は普通の日常を暮らすようになった。それでも皮膚は変わらず爪くらいの穴をあけたままで、そこから抜ける風を感じるたびにやはり空いている、と納得する。
 ちょうど連休だということで、家でまじまじと皮膚の穴を見続けることが多くあった。左手を伸ばすと、風景を丸く切り取るように穴が見え、その中にテレビ台の上に置いてあるサボテンを入れてみたりと、この変化を受け入れ始めていた。特に生活に支障が出ることもなく、強いて言えば、風呂に入ると普段との差が際立って見えるくらいだった。
 布団から上がり、連休最後の起床を終え、缶コーヒーを一気に飲み干す。身支度をして、さっさと家を出たのは午前六時半だった。
 特に代わり映えしない風景を歩いている。そのはずだが、どこか、細かい変化ではない、何かが大きく違うもののように感じられる。歩くたびに足から伝わる地面の硬さも、ほんの少し柔らかく思え、漂う花の匂いは金木犀の香り一つに変わっている。この連休ですべての花が植え替えられ、残り香はすべて風によって流されたというわけか。そんな乱暴なことが起きる連休だったのか。
 駅に向かう途中、右手の山の方に急な坂道が見える。車でも進むのがつらそうな上り坂。蜜柑が止まることなく転げ落ちる下り坂。今日は下り坂に見えた。
 その坂がある風景を見ながらゆっくり朝の道を進んだ。霧はなく、放射冷却によって少し寒くも思える。太陽は見えているが、気温はまだ上がらない。時間と共に熱せられていく坂道を冷たい蜜柑が転げ落ちていく様子が想像できた。
 
 駅前は特急の発車が近いからか、人をどんどん吸い込んでいく。北口の改札付近にいた人、朝飯のおにぎりをほおばる人、赤いリードを持った散歩途中の人、晴れなのに立派な傘を持っている人。何人もの人がものすごい吸引力で吸い込まれていく。
 駅前に横一列並んだ点字ブロックを踏んだ時、その突起の隙間に風の通りを感じ、そのまま足裏が数ミリ浮き、私も吸い込まれていった。左手でPASMOをタッチして。

 
 自動販売機でお茶を買うとその一連の動作に左手を一切使っていないことに気が付き、何か、もったいないような気がして強引に左手でお茶を取りだした。後ろに並んでいた男に左手を確実に見られたが、特に変な顔はしていない。
 通勤ラッシュ時には特急が無くなるため、次の特急が最後だった。私はいつもこの電車に間に合うようにすべての行動を決め、なるべく時間のずれを作らないように努めるのだ。雨や風で電車が来ないことはたまにあるが、基本的に大きく遅延したことは数少ない。待っていれば必ず来る。
 それはやってきた。左の方から二つの光を放射状に伸ばしている。一つがやけに明るく、もう一つは少し暗かった。不良か、何か。
 私は電車の最後尾に当たるホームドアに立つ。目的の駅の改札に一番近く、電車の椅子がよくあいている場所でもあった。
 ホームの端に近い所に立っているので、電車の侵入がよくわかる。一本のトンネルから大きな空間につながるその境目に当たるところでは気圧の変化か、そういうもので、大きな風が強くなる。かまいたちのように鋭く、切りつけるようなものではないが、気持ち程度突き刺さるような風と、体を浮かせるような上昇気流が発生し、入り混じる。仮に両方に色を付ければ、見事な混ざり具合で、一つの芸術品として玄関に飾られるだろう。
 電車が停止し、ドアの開閉と共に、車内の空いている椅子が際立って見え、さらにその中の一つめがけて私は歩いた。他と同じ色、柄だが、私はそこに何か、差異を見つけ、その一つだけが特別な椅子へと変わるのだ。
 
他の競争者がいなかったため、すんなり目的の椅子を手に入れた。
両隣には誰も座っておらず、椅子の模様がよく見える。何か茶色に染まった部分からは麦茶の匂いがした。その匂い以外の、香水や体臭はなく、電車の匂いに包まれた最後尾だった。
私以外にこの車両には十人ほど乗っているが、皆が私からずいぶん離れて座っている。意図的かとも思ったが、私があとから入った新参者なので、むしろ私が場違いなやつということになるだろう。
特急電車は定刻通り出発したようで、アナウンスが次の停車駅を告げた。それを聞いた数人が鞄を持ち直し、降りる準備をしているが、次の駅まで七分程度ある。皆、もう一度腰を落ち着かせた。
映り行く、時の流れを電車の窓に見た。木や建物は原型をなくし、さっと窓に張り付き、そして色を残したまま後方へ流されていく。少し離れると再構築され何事もなかったような面で次の電車を待つ。一瞬のうねりのために何年もその場に留まる建物たち。年月とともに朽ち果て行くことはきまっているが、それでも立ち続ける。根っこは頑丈に絡み合っているのだろう。
その流れを、目線を変えず見続けると、網膜に焼き付いたように残像が窓に映る。そこにない大きな樹木がそこにあるのだ。目がおかしくなったと思い、両手で目を強く擦る。眼球を擦ると言えるほど強い力を加え、手を離すと視界がところどころ暗くなった。抜け落ちた視界を取り戻そうと瞬きを繰り返すと私は不自然な瞬きに気が付いた。何度瞬きをしても、視界が正常にならない。それは黒の抜け落ちが四隅や、点となって残っているということではなく、開いた目が捉えるはずの視界にあるべき左手が見えないのだ。
さらに左手の手首付近に明らかに自分のものではないものがあった。
それがどういうものか、昔見た戦争映画で出てきた片手を失った女性にも同じものを見た。
五本に分かれるはずの指はなく、それを支える手のひら、裏返せば甲がない。代わりに手首のところで皮膚が丸くなっている。
手が消えてしまった!
左手の皮膚の欠落はもう見えない。残った右手からその欠落があった付近を探るが、触ることはできない。空間に存在しないことがよくわかる。
ひょっとすると元々怪我か何かで左手がなくなっていて、そのことを忘れて、もしくは視界にいれないように生きてきただけで、だから誰も私の左手の皮膚の欠落に首をかしげなかったのかもしれない。もともと手がなかったから。
しかしそれだと自動販売機のお茶を左手で取り出した記憶の整合性が取れない。
やはり、手が消えてしまったということなのか!
作品名:錆の雨 作家名:晴(ハル)