錆の雨
誰にも見つからないようにそっと隠した左手を見ると確かに皮膚がない。皮膚の下の肉や血管がむき出しになっているということではなく、皮膚があった場所がそのままないのだ。その下にあるはずの肉や血管ももちろん見えない。微弱なエネルギーしか持たない星のように、存在しているにも関わらず、視認することができなかった。
何かシールやペンがついているのかと思い、ゆっくりこすってみたが、取れる気配はなく、インクが滲むような気配もなかった。確実に皮膚がない。
透明になっている。薄くなっている。つまり脱色されているというわけでもなく、ないのだ。どうにか言葉にしようと考えてみたが、ボールペンを買うかの葛藤のように無限ループを繰り返している。若い店員が数回見回りに来たが、万引き犯に見えるのだろうか、私を監視するように見てくる。それこそ浮浪者を蔑む目つきをしているのだ。私は左手を見られないように背を向ける。この不思議な左手を他人に見せてはいけないように思えた。
消失した皮膚はとても小さな範囲で、細胞一つ分ほどのようにおもえるほど小さい。それは皮膚がある左手の甲との対比でそう思えるが、手の甲全体ではなく、欠如した皮膚に視点を置くとかなり大きくみえた。爪一つ分ほどの大きさに見えたのだ。
だから私は不思議に思うのだ。かなり小さな欠如ならば、特に気にする必要もない。だが、ぽっかり空いた皮膚は目立ちすぎる。
また店員がやってきた。しかし今度は二人やってきた。大きな男と先ほどの若い女。
「こんな晴れの日にお越しいただいて、さぞ本がお好きなんですね」
大柄な男の胸には店長というネームプレートがあった。林田と書いてある。
「今日は本ではなく、ボールペンを見に来たんです」
そういいながら左手をポケットに突っ込むと林田は急に視線を私の左手に向け、一歩前にでた。
「申し訳ありませんが、奥まで来てもらえますか」女性が奥の扉を開けに行き、私は林田に左手を掴まれて奥に引きずり込まれそうになった。左手に握ったボールペンの触り心地だけがやけに伝わってくる。
「私が何をしたんだ、離せ」
「万引き犯が何をいっているんだ。ポケットに入れたボールペンが何よりも証拠だろ!危うく三万円の利益を持っていかれるところだった!」
林田は一層強い力を私に込め、私は流されるように奥の部屋に詰め込まれた。
電車を降りると雨が止んでいた。電車に乗り込み、数駅。雷雨地帯に入り込んだのか、電車の窓が一気に濡れ白く染まり、乾いた車内との差がさらに広がっていた。人々もその変化に驚いているのか、外の景色だけを見ていた。椅子に座っている数人は事態の変容に気づいていない。赤い帽子を被った女性は車内に籠るように響いている音にも気づかない。雷雲に覆われている空が突然赤くなっても気づくことなく熱線に焼かれるだろう。それが現代人の一つの最期かもしれない。
その雷雨が止んでいたのだ。これがどれほどのことか、わかるだろうか。ただ、気象が変わったということではないのだ。雪が雨に変わり、落胆する子供にはわからないだろうが、電車に一人で乗るスーツの男にはわかるはずだ。赤い帽子の女性は一生雷雨を通り抜けてきたことを知らず生きていく。雷雨の凄まじいエネルギーに包まれ、それでも自身の体は侵されることなく何事もなかったかにように過ぎていったことの特別さを一切知ることもなく生きていく。
それは彼女の人生の質を大きく変えるものの一つだろう。暗いトンネルでの当然の発光にも、最善とは言えないながらも、多少なりとも対応できるだろう。
電車は定刻通りに到着し、ほんの数秒後には発車するもので、日本人は皆それをわかっている。その数秒に間に合うように席を立ち、鞄を手にする。時間は戻らないし、止まらないと分かっている。私も同じように行動した。雨に濡れた車体に触れることなく、電車を降りた。雨を実感することなく通り過ぎてしまったのだ。逆向きの電車に乗って雨雲を追いかけるのもいいが、今はそういうことができるほど余裕がない。あの雷雨の存在を知っておきながら自ら突き進むには精神が疲弊している。
行きつけの本屋で万引きだと思われ、まさか金まで払うことになるとは思いもしないことで、財布の中は一気に空になり、明日以降の飯の心配をしながらここまで来たのだ。
憂鬱になる明日を想像していた時に見えた雷雨。このまま雷雨の範囲が広がり、東京中が雷雨によって浸食されれば、支援という名目で飯が食える。仮に家がつぶれても支援で何とかなりそうだ。連続した落雷は木製のものを燃やし、雨に負けないほどの熱量を持つだろう。そもそも氾濫した川からの濁流が家と道路の境目を押し流してしまう。一からの再建によって私の一文無しの状態がリセットされる。なんともいい空想に思えた。
遠くの雨雲はここからも見える。ビル群の少し上を囲むように広がる灰色の雲。そこに紫色の彩雲が一瞬見えた気がしたが、そんなことはおきない。
雨雲はもうじき晴れる。時間の流れは雲をも動かし、塊になって浮かんでいた雲は少し目を離せば散り散りになっていく。雲も光同様、時間に支配された生き物なのだ。
そうやって向こう側を見渡していると、次の電車がやってきて、私の目の前で扉を開いた。誰も降りてくることはなく、扉は閉まった。その閉まった時の振動からか、雨粒が一つ私の右の頬に飛んできて、それを左手で拭った。不純物を多く含んだ濁った水が透き通って見える矛盾を感じる。
左手の甲にさらっとついた雨水がきらりと光ると、私は驚いた。
そうだ、この皮膚のことを忘れていた!
気づくと同時に私は一気に不安になった。明日以降の飯を気にしていた私はどこかへ消え、関心がすべて左手に集まった。この小さな欠落の理由はもちろん、原理もまったくわからない。それでも確かに皮膚がない。
私は急いで改札に向かった。なんだか次の電車から降りてくる人が私の秘密について次の段階に進めそうだと思えたからだった。何かそういう前触れや、映像が浮かんだわけではないが、そんな気がしたのだ。誰にも理解されない予知だが、よくわからない皮膚の欠落があるからこの予知は本物になる。私は急いだ。
考えれば考えるほど私の行動の意味の根幹が揺るぎだすので、私は考えることなく小走りで改札に向かった。いつもは左手でPASMOをタッチするのだが、そうはいかない。慣れない右手で何とか通り抜けた。そのぴっという音の後に、電車の到着メロディーが反響しながら聞こえてきた。
誰にも見られないように左手を取り出すと、異様なものを見た。改札の前で両足をそろえて立っているのは、実に邪魔ものだろう。それでも、私はそうすることしかできなかった。それほどの衝撃だった。
左手の皮膚の穴がさらに大きくなっていたのだ!
それは細胞単位だとか、ピクセル単位の小さなものではなく、爪一つ分、センチ単位のものだった。
垂れ下がった塩酸によって融かされたように、向こう側が透けて見える!しかし、向こう側の景色に塩酸らしき液体が垂れた跡も、貫くような重機も見当たらない。ただ、皮膚が抜け落ちていた。