錆の雨
不思議なことは雨の日によく起こるような気がする。錆びついた車輪が強引に転がされ、坂道を駆けぬけるときに車輪の跡に沿って錆を細かく落としていく。その細かい錆を一つ一つ見分けている私はその車輪の持ち主からずいぶん離れて立っているのだ。青臭い錆の星のような形や触手のようにうねる形を時間に逆らいながら観察することは振り返ってみると不思議なことなのだ。
雨でなければこういうことは起きない。透明な傘を持たない私は同じ道、同じ時刻で同じ光景を目にしても一切不思議な空想を現実に出すことはないだろう。それよりも道の隅にある白い岩の上に座る猫に目が行くだろう。足りないものは雨、ただ一つなのだ。
車輪の錆は、過ぎ去った後に地面に落下した。地面に落下したものはそう多くはなく、それ以上の無数の錆が空中を漂ったまま雨に押されて徐々に落下している。雨に濡れた錆はさらに自身の特徴を強くさせるだろう。時間の流れに逆らうことなく錆は体を大きくさせる。血をすすった蛭のような体つきにはならないが、蚊の小さな体ぐらいにはなるだろう。
落ちた錆は雨に濡れて動くことを許されない。上空から伴ってきた重さ、それは形容しがたいほどのものだろう。その重さを軽々と傘で受け止めていく私は何とも強いだろうか。
雨の落下は素直で、時間に逆らうことはしない。そう、しないのだ。私はその時間の流れを受け止めている。それも不思議な錆の様子を拡大しながら。錆はそのまま雨に押され続けるかと思いきや、どこから湧いてきたのか、力強く雨に反発してホップしている。小さな錆はそのあと雨に紛れて見えなくなったのだ。
ビルの屋上で空を見ていると代わり映えしない一面に突如オレンジ色の光が見えた。それはどこか一点の光源からでているとは思えないもので、実際、私が一点とは認識しないほど大きな光源から出されている。それでも一点であることには変わらず、私は間違った見方をしているのだ。その不思議をどうにも受け入れがたく思っている。この差を生み出したのは何だろうか。おそらくあのオレンジは太陽のものだ。オレンジの集合体から一斉に、解き放たれた熱は色を持ち、どういう経路を辿ったのか、地球までやってきた。もしくは太陽そのものの形を保ったまま、ぐいぐいと地球に接近してきたのかもしれない。
とすると私が感じる一点の間違いはこの巨大すぎる太陽の輪郭が引き起こしているのか。視界に収まりきらないものを一点とは認識できない人間の目(厳密にいうと私の目)の欠陥があらわになると、私は今見えている景色にすら疑念を覚える。このオレンジ色は私が見ることができる色彩系統によって出現したもので、本来の夕日は青なのかもしれない。いや、緑か。
途端にすべての常識の根拠が曖昧になりだした。特に目を通して見えていたものは信用ならなくなる。青い空も、染まっていく空も、灰色の集合体も、どれも存在を支える根幹を欠いている。今にグネっと白く鉄筋が曲がりだし、沸騰した水のようにぐつぐつと泡立つ緑の空が見えるかもしれない。そしてその変化を私は知覚することができないのだ。
見えない変化の中で私は無邪気に夕日による浸食を楽しみ、その反面、夕日の色と空の色の混ざりによって濃くなっていく空の色から、夜が持つ漠然とした恐怖、を思い出し、夕日の到来を拒みだすのだ。私は屋上の手すりに全身の重りを乗せ、体を密着させることで最低限の安心を手に入れるのだ。
向こうのビルの窓が染まった。その確実にみえている変化は私にもう一つの考えを持ってきた。時間だ。そう、時間。
太陽はここから遠くにあるらしい。一秒間に地球を七周半する光ですら八分かかる。それほど遠い。光の速さを桜の花びらの落下速度のように日常的に体感することはできないが、日常に漠然と存在し、どういうわけか心を解きほぐすことが多い光が日常に見えるものより上の存在であることには納得できるので、飛行機やロケットより速いことを否定できない。科学的ではないが、確信をもてる。
それ程遠い距離を延々と進む太陽光に、途中で変化が生じてもおかしくはない。一つの集合体から出た光が宇宙空間の何かにぶつかり、分裂、もしくは別のナニカに変化する。おかしい所はどこにもない。科学的に否定できても私的には否定できない。
しかしそうなると次は時間というものの根幹が揺らいできた。朝日が昇り、夕日が現れ、空が暗くなる。この繰り返しは紛れもなく時間が引き起こしているのだ。そこに誰かの意思は絶対的に関与しておらず、宗教はそこに神を登場させることで神秘性を確固たるものにしている。時間は体感的に一直線に進む。これは紛れもない真実だ。
太陽光は時間の流れに乗って地球までを延々と泳ぎ、さらにその姿を一点から巨大な光の面に変えて私に届いている。一直線に続く時間の中で毎回同じ変化をしているのだ。しかしどうにも私にはそこが信じられない。私の想像では光はどのようにも変われる。小さな一点に集まった後、爆発的に大きくなって、霹靂的な光になる。そういう流れが無数に存在していると想像できるのだけれども、最初と最後はいつも同じになる。胴体は多様に変化して、頭と尻尾は常に一つに決まる。そんなことがあるのだろうか。
時間の流れは毎回一つの流れを持っている。その法則に従う光は毎回同じように変わり、夕日になり、朝日になり、夜になる。つまり、私が前述のように宇宙空間での光の変化についていくら考えようがそれは全く無意味で、たった一つの最終的な変化だけが正解なのだ。
ということは、私が楽しく過ごせば時間は早く進み、退屈に思えばゆっくり進む、時間の非均一性は、宇宙では存在しない。私が日々感じていた時間感覚は全くの誤りであったのだ。
それと同時に迫りくる夕暮れをますます恐ろしく感じる。私の意志に干渉されない時間が私の上に覆いかぶさって、様々なことが私に降りかかってくるのだ。
不思議なことに自分で考えながら何を考えていたのかわからなくなっていた。時間を支配する何者かが、真理にたどり着かせないように邪魔をしていたのか、私の頭が処理しきれなくなってしまったのか。今夜は雨になるそうだ。
不思議なことは晴れの日にも起きた!
私がたまたま立ち寄った本屋で手にした一本のボールペン。黒の上品な肌触りが特徴で、書き心地もかなり良く、唯一値段が他のものに比べて高すぎる点がネックで、購入を思い止めていた。
そんなことでない。ボールペンなど人間が生きていればいくらでも買える。
私はボールペンを持ったままの左手を凝視している。
「一か所、いや、…、とにかく肌がない」
私は小さくつぶやき、咄嗟に左手を隠した。何か秘密がそこに隠されているような気がしたのだ。その秘密は私の体に関することかもしれないし、世の中の何かとんでもないことの前触れかもしれない。そういう非現実的な思考が展開したのだ。
雨でなければこういうことは起きない。透明な傘を持たない私は同じ道、同じ時刻で同じ光景を目にしても一切不思議な空想を現実に出すことはないだろう。それよりも道の隅にある白い岩の上に座る猫に目が行くだろう。足りないものは雨、ただ一つなのだ。
車輪の錆は、過ぎ去った後に地面に落下した。地面に落下したものはそう多くはなく、それ以上の無数の錆が空中を漂ったまま雨に押されて徐々に落下している。雨に濡れた錆はさらに自身の特徴を強くさせるだろう。時間の流れに逆らうことなく錆は体を大きくさせる。血をすすった蛭のような体つきにはならないが、蚊の小さな体ぐらいにはなるだろう。
落ちた錆は雨に濡れて動くことを許されない。上空から伴ってきた重さ、それは形容しがたいほどのものだろう。その重さを軽々と傘で受け止めていく私は何とも強いだろうか。
雨の落下は素直で、時間に逆らうことはしない。そう、しないのだ。私はその時間の流れを受け止めている。それも不思議な錆の様子を拡大しながら。錆はそのまま雨に押され続けるかと思いきや、どこから湧いてきたのか、力強く雨に反発してホップしている。小さな錆はそのあと雨に紛れて見えなくなったのだ。
ビルの屋上で空を見ていると代わり映えしない一面に突如オレンジ色の光が見えた。それはどこか一点の光源からでているとは思えないもので、実際、私が一点とは認識しないほど大きな光源から出されている。それでも一点であることには変わらず、私は間違った見方をしているのだ。その不思議をどうにも受け入れがたく思っている。この差を生み出したのは何だろうか。おそらくあのオレンジは太陽のものだ。オレンジの集合体から一斉に、解き放たれた熱は色を持ち、どういう経路を辿ったのか、地球までやってきた。もしくは太陽そのものの形を保ったまま、ぐいぐいと地球に接近してきたのかもしれない。
とすると私が感じる一点の間違いはこの巨大すぎる太陽の輪郭が引き起こしているのか。視界に収まりきらないものを一点とは認識できない人間の目(厳密にいうと私の目)の欠陥があらわになると、私は今見えている景色にすら疑念を覚える。このオレンジ色は私が見ることができる色彩系統によって出現したもので、本来の夕日は青なのかもしれない。いや、緑か。
途端にすべての常識の根拠が曖昧になりだした。特に目を通して見えていたものは信用ならなくなる。青い空も、染まっていく空も、灰色の集合体も、どれも存在を支える根幹を欠いている。今にグネっと白く鉄筋が曲がりだし、沸騰した水のようにぐつぐつと泡立つ緑の空が見えるかもしれない。そしてその変化を私は知覚することができないのだ。
見えない変化の中で私は無邪気に夕日による浸食を楽しみ、その反面、夕日の色と空の色の混ざりによって濃くなっていく空の色から、夜が持つ漠然とした恐怖、を思い出し、夕日の到来を拒みだすのだ。私は屋上の手すりに全身の重りを乗せ、体を密着させることで最低限の安心を手に入れるのだ。
向こうのビルの窓が染まった。その確実にみえている変化は私にもう一つの考えを持ってきた。時間だ。そう、時間。
太陽はここから遠くにあるらしい。一秒間に地球を七周半する光ですら八分かかる。それほど遠い。光の速さを桜の花びらの落下速度のように日常的に体感することはできないが、日常に漠然と存在し、どういうわけか心を解きほぐすことが多い光が日常に見えるものより上の存在であることには納得できるので、飛行機やロケットより速いことを否定できない。科学的ではないが、確信をもてる。
それ程遠い距離を延々と進む太陽光に、途中で変化が生じてもおかしくはない。一つの集合体から出た光が宇宙空間の何かにぶつかり、分裂、もしくは別のナニカに変化する。おかしい所はどこにもない。科学的に否定できても私的には否定できない。
しかしそうなると次は時間というものの根幹が揺らいできた。朝日が昇り、夕日が現れ、空が暗くなる。この繰り返しは紛れもなく時間が引き起こしているのだ。そこに誰かの意思は絶対的に関与しておらず、宗教はそこに神を登場させることで神秘性を確固たるものにしている。時間は体感的に一直線に進む。これは紛れもない真実だ。
太陽光は時間の流れに乗って地球までを延々と泳ぎ、さらにその姿を一点から巨大な光の面に変えて私に届いている。一直線に続く時間の中で毎回同じ変化をしているのだ。しかしどうにも私にはそこが信じられない。私の想像では光はどのようにも変われる。小さな一点に集まった後、爆発的に大きくなって、霹靂的な光になる。そういう流れが無数に存在していると想像できるのだけれども、最初と最後はいつも同じになる。胴体は多様に変化して、頭と尻尾は常に一つに決まる。そんなことがあるのだろうか。
時間の流れは毎回一つの流れを持っている。その法則に従う光は毎回同じように変わり、夕日になり、朝日になり、夜になる。つまり、私が前述のように宇宙空間での光の変化についていくら考えようがそれは全く無意味で、たった一つの最終的な変化だけが正解なのだ。
ということは、私が楽しく過ごせば時間は早く進み、退屈に思えばゆっくり進む、時間の非均一性は、宇宙では存在しない。私が日々感じていた時間感覚は全くの誤りであったのだ。
それと同時に迫りくる夕暮れをますます恐ろしく感じる。私の意志に干渉されない時間が私の上に覆いかぶさって、様々なことが私に降りかかってくるのだ。
不思議なことに自分で考えながら何を考えていたのかわからなくなっていた。時間を支配する何者かが、真理にたどり着かせないように邪魔をしていたのか、私の頭が処理しきれなくなってしまったのか。今夜は雨になるそうだ。
不思議なことは晴れの日にも起きた!
私がたまたま立ち寄った本屋で手にした一本のボールペン。黒の上品な肌触りが特徴で、書き心地もかなり良く、唯一値段が他のものに比べて高すぎる点がネックで、購入を思い止めていた。
そんなことでない。ボールペンなど人間が生きていればいくらでも買える。
私はボールペンを持ったままの左手を凝視している。
「一か所、いや、…、とにかく肌がない」
私は小さくつぶやき、咄嗟に左手を隠した。何か秘密がそこに隠されているような気がしたのだ。その秘密は私の体に関することかもしれないし、世の中の何かとんでもないことの前触れかもしれない。そういう非現実的な思考が展開したのだ。