①全能神ゼウスの神
魔王サタン
「ここ、自由に使って。」
通された客間の豪奢さに、気後れする。
ゼウス様の部屋とは比べ物にならないほど広く、きらびやかだ。
思わず後退りした私に、陽が部屋を覗きこんだ。
「なんかいた?」
一瞬背中に触れた陽の胸に、再び体が震える。
「あ…ううん…ちょっと…気後れ…した、だけ…。」
声と体を震わせながらぎこちなく答える私のすぐ後ろで、陽が低い声で呟いた。
「荒療治でさ、いっそ僕が抱いたら治るかも?」
「っ!?」
思いがけない言葉にふり返ると、恐ろしいほど真剣な表情の陽と視線が絡む。
その瞬間、脳裏に黒い笑みを浮かべる人の顔が過った。
「!!」
(なに!?今の…。)
私はそのまま後退り、尻もちをつく。
体を小さくふるわせながら陽を見上げると、彼は私から目を逸らした。
「ごめん…。」
ぎゅっと眉根を寄せ、背を向ける。
そのまま突っ立っていたけれど、なにかをふりきるように歩いて行った。
「陽…。」
私は震える手をギュッと握りしめ、その拳を顎に押し当てた。
脳裏に蘇るのは、陽との幸せだった日々。
普通の恋人同士のように手を繋ぎ、体も重ねてきた。
触れ合えば、体が震えるほど幸せだった。
(そう…あの頃は、幸せすぎて震えてた…。)
(陽が言う通り、思いきって抱かれたら、あのおぞましい記憶を塗り替えられるかも…。)
けれどその瞬間、また黒い影が脳裏を過り、背筋がふるえた。
(やっぱり、ダメだ。)
新月の帰宅途中、いつも通り、アパート近くの公園横を通っていると、知らない男に突然羽交い締めにされた。
あっという間に公園の暗がりに連れ込まれ、馬乗りに組み敷かれる。
外灯も届かない、木々の陰。
下卑た笑い声を立てながら、男が乱暴にスーツのシャツを引きちぎる。
ガサついた指で荒々しく素肌をまさぐられ、酒臭い吐息が吹きかけられた瞬間、嫌悪感で一気に肌が粟立った。
悲鳴をあげようとするけれど、恐怖で喉の奥が詰まって声が出ない。
そんな私を嘲笑いながら、男が体をわずかに浮かせてスカートに手を差し込んだ、その瞬間。
私は、男を蹴り飛ばして逃げた。
けれど恐怖でうまく手足が動かない私は、すぐに転んでしまう。
「てめぇ!!」
怒りに満ちた男の声に、体の震えが大きくなった。
「は…る……陽…」
私は掠れた声ですがるように名前を呼びながら、這って逃げる。
けれど足首を掴まれて、ふり向いた私はずるずると後ずさりながら逃げ…。
そこまで思い出した私は、呼吸が荒くなる。
自分を抱きしめながら、頭を抱え込んだ。
陽に案内された部屋は、豪奢で広い。
けれどひとりで広い部屋にいるのは、とても不安だった。
(誰か、傍にいてほしい…。)
(陽…。)
私は立ち上がると、ふるえる足で廊下に出る。
(陽の部屋は、確かこっちだったはず…。)
案内された時の記憶を辿り廊下を進むけれど、青い絨毯が敷かれた廊下も広間のように広く、方向を見失った。
誰かに訊こうにも、ひと気がない。
(メイドさんとか…いないの?)
キョロキョロと見回しながら廊下をウロウロしていると、不意に声を掛けられた。
「侵入者?」
艶やかな声に、慌ててふり返る。
すると、少し離れた場所に金髪の男の人が壁に体を預けて立っていた。
大きな黒い瞳を鋭く細め、こちらをジッと見つめている。
「…人間?」
そう呟いた瞬間、その人は目の前に立って、私の手首を掴んでいた。
「エサが逃げ出したのか。」
(…エサ!?)
その瞬間、閃光が走り、バチッと電気が走る音がする。
そして虹色の光が私を包み込み、彼を弾き飛ばした。
「…。」
弾き飛ばされた彼の背から、大きな黒い羽根が広がり、バサリと大きな音を立てる。
そうして転倒を防いだ金髪の彼の髪は長く伸び、黒かったはずの瞳は赤く変化していた。
「…あ…くま?」
呟いた私の声は、ひどく掠れている。
「熊じゃない。魔王サタンだ。」
ぞくりと背筋が震えるほど禍々しい雰囲気の人だけれど、その一言でイメージが変わった。
(熊?…私、熊なんて言ったっけ?)
首を傾げながら、はたと気づく。
(もしかして『あ…くま?』を『あ…熊?』と聞き間違った?)
そう思った瞬間、思わず吹き出してしまった。
「もしかして…天然!?」
(魔王なのに、天然!?)
お腹を抱えて笑う私を口をあんぐりと開けて見ていたサタン様は、ほんのりと頬を赤らめながら咳払いする。
「…たしかに、よく『天然』って言われるけど…初対面の、しかもエサに笑われたのは初めてだな。」
(そういえば、さっきから『エサ』呼ばわりなんだけど…。)
悪い人でなさそうなので、思いきって訊ねてみた。
「『エサ』って、どういうことですか?」
すると彼は、あっさりと答える。
「神にとって、人間はエサかペットじゃん。」
当然のように言われたので、不思議と恐怖心がわかない。
「…神様って…人間を食べるの?」
更に突っ込んで訊くと、サタン様は腕組みしながら僅かに首を傾げた。
「正確には『人間のオーラ』を食べる。」
(人間の、オーラ…。)
黙り込む私を、サタン様はきょとんとした顔で見つめる。
「知らなかった?」
頷く私の前で無言になったサタン様は、おもむろに私に背を向けた。
「じゃ、見に行こ。見た方が早いだろ。」
(見に行く?…ってまさか…その食事風景を、ってこと?)
足がすくんだ私に気がついたサタン様は、私をふり返ると、人差し指で私を招く。
「おいで。」
その瞬間。
魅入られたように、私の意思とは無関係にふらりと足が前へ踏み出した。
(…勝手に足が!!)
サタン様は人差し指をくいくいと動かしながら、私を導いて行く。
そして、しばらく歩いたところで、ピタリと立ち止まる。
私をふり返ったサタン様は、いつの間にか羽根が消え、髪も短い金髪に戻り、瞳も黒くなっていた。
「ほら、ああやって食べんの。」
親指で指された先を何気なく見ると、ベッドの上で熱い口づけを交わす男女が見える。
その二人には、見覚えがあった。
陽と、さきほどの彼女…。
明らかに今から男女の営みを始めようとしている二人から、私は思わず目を逸らす。
(や…だ…!)
陽とは別人だとわかっていても、他の女の人を抱く姿は見たくない。
そんな私にとどめを刺すかのように、彼女の甘い喘ぎ声が聞こえてきて、思わず私は廊下を駆け出した。
「なんで逃げんの?」
追いかけてきたサタン様が、肩を並べて顔を覗き込んできた。
「だって…あんな場面、覗いちゃダメだし…。」
必死で言い訳しながら、早足で歩く。
「なんで。ただミカエルは飯食ってるだけなのに。」
「飯って!」
思わず私が睨み上げると、サタン様は悪びれる様子もなく、私を見つめ返した。
「人間って、快感が伴うと、めっちゃ旨いオーラが大量に出るんだ。だからああやって感じさせながら、溢れ出たオーラを頂く。」
その言葉に、私は足を止める。
「神様は、性欲と食欲が一緒ってこと?」