①全能神ゼウスの神
あまりの恥ずかしさに、私はお腹をおさえながら、その視線から逃れるように目を逸らした。
「…ぷっ」
小さく吹き出すと同時に、鈴を転がすような可愛らしい笑い声が室内に響く。
大理石の壁や天井にその声が反響し、私もつられて一緒に笑った。
「珍しいな。あなたがそんなに笑うなんて。」
突然響いたやわらかな澄んだ声に、私の体がびくりと震える。
(この声…。)
その瞬間、ヘラ様が部屋から素早く出て黄色い扉を閉めた。
『私が寝てる間に、めいが見つからないように』
ゼウス様の言葉に忠実に従ったヘラ様は、私を隠したのだろうけれど、私は聞こえた声が気になって、少しだけ扉を開ける。
すると、その隙間からはやはり、想像通りの男性が立っているのが見えた。
ふわふわパーマの黒髪の男性…。
パリッとお洒落なスーツを着こなし、可愛らしいアイドルのような顔立ちなのにモデルのように背の高い男性。
愛しい、最愛の人が思いがけず現れて、私は驚いた。
「陽(はる)!」
思わず私は扉から飛び出し、彼に駆け寄った。
すると、形の良い大きな瞳が私をとらえ、冷ややかに細められる。
「!…なぜ、ここに…。」
その瞬間、彼の髪が長く伸び、背中から白い羽根が生えた。
私を威嚇するように、大きな羽根がバサリと音を立てて広がる。
「!」
頭の上には…エンジェルリング!
黒かった瞳はサファイア色に変わり、私をジッと見下ろした。
(陽…じゃない?)
驚きのあまり立ちすくむ私を隠すように、ヘラ様が立ち塞がる。
「いらっしゃいませ、大天使ミカエル様。」
(…大天使ミカエル…。)
ミカエルといえば、輝く金髪に白い肌のイメージだけど、目の前の陽そっくりのミカエル様は、黒いゆるやかなウエーブヘアに、陽に焼けた健康的な肌色。
清廉なイメージの天使でなく、どこか魔性を感じるのは黒髪のせいだろうか。
感情の読めないサファイアの瞳は、私を庇うように頭を下げるヘラ様を通り越して、私を冷ややかに見下ろした。
無言で見つめられ、背筋がぞくりと震える。
顔も声も陽そっくりだけれど、纏う空気の冷ややかさに確信が持てない。
ミカエル様は私から目を逸らすと、ヘラ様に訊ねた。
「ゼウス様は、泉に?」
ヘラ様は、優雅な所作で頭を下げて答える。
「いえ。もう戻られて、今はお休みになられています。」
「…もう、お戻りに?あんなに大変だったのに…」
「アポなしで来るな、って何度言わせんの。」
ミカエル様の呟きを遮るように無機質な低い声が響き、いつの間にかゼウス様が仁王立ちしていた。
「わざと?」
彫像のように冷たい表情でそう問いかけるゼウス様からは、何の感情も感じられない。
そして、さりげなく私を背に隠すように前に立つ。
「空気が騒いでいたので何か異変が起きているかもしれないと思い、急ぎ駆けつけたのですよ。アポイントを取っている間に伺える距離ですから。」
ふふ、と品良く笑いながら、ミカエル様は可愛らしい笑顔でゼウス様を真っ直ぐに見つめた。
「まだ泉で回復されていらっしゃると思っていたので、その間、微力ながらお手伝いさせて頂こうと思っただけです。」
そう言う純真な微笑みは大天使らしく、先ほど感じた魔性は…もうない。
(私の精神があまりにも不安定すぎて、懐疑的になってしまっているのかもしれない。)
(というか、よくよく冷静に考えたら、神の国に陽がいるはずないじゃん。)
(なのに…バカだ、私。ゼウス様のお気遣いを無下にしてしまった…。)
ミカエル様は、ゼウス様の肩越しに私を見た。
目が合った瞬間、羽根とエンジェルリングが消え、髪も短くなり、瞳の色も黒に戻る。
「めい。」
「!?」
突然、名前を呼ばれ驚いた。
優しく微笑まれ、胸が高鳴る。
「陽…?」
(やっぱり、この人は陽なの?)
愛しさが溢れ、吸い寄せられるように足が自然に一歩踏み出した。
けれどその瞬間、それを阻むように私の前に腕が差し出される。
驚いてゼウス様を見上げると、こちらを斜めに見下ろす金の瞳と視線が絡んだ。
一瞬交わった視線はすぐに逸らされ、次にその金の瞳はミカエル様を捕らえる。
「ハル?」
無機質な声色で問われたミカエル様は、やわらかく微笑んだ。
「私の、真名です。」
(やっぱり陽なんだ!)
(でも、なんで…?)
嬉しさと安堵で、頬がゆるみながらも、疑問が頭をもたげる。
そんな私の思考を奪うように、甘く見つめながら、陽はこちらへ手を差しのべた。
「私の、人間だった時の恋人でした。」
ゼウス様は、再び私を斜めにふり返る。
無言で『本当か?』と問われているようなその視線に、私はゆっくりと頷いた。
「…はい。」
(『人間だった時』?)
(私が意識不明になって、どのくらい経っているの?)
私の疑問を読んだかのように、陽がくすりと笑う。
「ここは、過去でも未来でもないんだ。時間の流れが全く違う異空間、といえば想像つく?」
優しい説明に、私は小さく頷いた。
「だから、めいが魂になってすぐでもあるし、もう何千年前でも何憶年後でもある。」
(…うーん…わかったような、わからないような…。)
思わず右斜め下に視線を逸らした私を見て、陽がいつものように吹き出して笑う。
「人間の時間と神の時間の流れが重なる時は少ない。偶然、めいが意識不明の時間が重なっている今なら、還れる。これを逃したら、いつまた還れるかわからないよ。」
(そういうこと…。)
さっき、泉で言われた『今なら還してやれる』『さすがの私でも、還してやれなくなる』というゼウス様の言葉を思い出し、ようやく合点した。
「だから、早く還ったほうがいい。」
陽の真摯な表情に、私はうつむく。
「還っても…また同じ目に遭うかも…。」
すると陽が屈んで、下から私の顔を見上げた。
「『僕』が守るから。…今度こそ。」
真っ直ぐに見つめられ、私の心にじんわりと温かさが蘇る。
「さっきは、驚きすぎて…思わず威嚇して、ごめんね。」
陽は、至近距離で微笑んだ。
「…出張から帰国したらめいが亡くなってて…それからの『僕』の、あの人生は絶望一色だった。」
言いながら、陽の大きな黒瞳が潤む。
「会いたくて…めいに会いたくて…その記憶だけが魂に刻まれて、大天使になった今も抱き続けているんだ。」
(じゃあ、この陽は…あの陽とは違う人ってこと?)
(…そりゃそうか…大天使ミカエル様だもんね…。)
「めいの死は、めいを愛した人間すべてを絶望させ、一生苦しめたんだ。…だから、還っ」
陽が私の手を握ろうとした瞬間、ゼウス様が体を割り込ませた。
そして私に背を向けたまま、無機質な瞳でこちらをふり返る。
「流されるな。冷静に判断しな。」
ゼウス様の表情のない瞳と視線が絡み、私は陽とゼウス様を交互に見つめた。
『めいの死は、めいを愛した人間すべてを絶望させ、一生苦しめた』
『流されるな。冷静に判断しな。』
(また、同じ目に遭うかも…。)
『僕が守るから。…今度こそ。』
何度も何度も反復し、陽とゼウス様を見比べる。