①全能神ゼウスの神
思わず鏡から目を逸らし俯く私に、ヘラ様がそっと服を差し出した。
「あの、白い扉が浴室になります。」
ヘラ様の言葉に、私は顔を上げてその視線を辿り白い扉を確認する。
「ゼウス様もお休みになられましたし、お風呂に入って、今日はこの部屋でゆっくり過ごされてください。」
(この部屋で!?)
「あの、ここは…ヘラ様のお部屋では…?」
(ゼウス様とあれやらこれやらをしているベッドで寝るのはちょっと…。)
あたふたと挙動不審になる私に、ヘラ様は首を傾げた。
「いえ、私はゼウス様と同じ部屋ですので…。」
きょとんとするヘラ様に、私は一気に赤面する。
(そりゃそうか!!奥様なんだもんね!!)
私は慌てて服を受け取りながら、頭を下げた。
「あ…ありがとうございます!!」
すると、ヘラ様が服を受け取った私の手に、温かな手を重ねる。
「女同士なので、何か私にできることがあればご遠慮なくおっしゃって…」
その言葉の途中で、ヘラ様は口を噤んだ。
私が手をふり払い、後ろへ飛び退いたからだ。
落ち着いていたふるえが再び全身に広がり、私は触れられた温もりの残る手を胸に抱きながら身を縮める。
「ご…めな…さ…触られ…の…ちょっ…怖くて…」
驚きに見開かれたヘラ様の碧眼を見つめながら、私はその場にへたりこんだ。
ヘラ様はそんな私を悲しげに見つめた後、床に散らばった着替えを拾い集める。
そして、白い扉の向こうに置きに行った。
「私、ゼウス様の部屋にいますので、また声を掛けてください。お食事を、ご用意しますから。」
優しい笑みを私へ向けながら、ヘラ様は赤い扉を開ける。
(この部屋には、ゼウス様の寝室への続き扉が…。)
静かに閉まった赤い扉を見つめながら、私はふるえる体を抱きしめた。
しばらくして、少し落ち着いた私は、浴室へ向かう。
扉を開けると、ふわりと上品な甘い香りが鼻腔をくすぐった。
(いい香り…。)
棚に目をやると、アロマの瓶がたくさん置いてある。
浴室の香りの正体に興味をそそられた私は、ひとつひとつ香りを嗅いでみた。
「これだ。…ネロリ。」
少しビターな、その甘い香りを思い切り吸いこむように、私は深呼吸する。
(なんだか、久しぶりに息を吸えた気がする…。)
その瞬間、頬を熱いものが滑り落ちた。
両方の目尻と目頭から、堰が決壊した川のように涙が溢れ、頬を伝う。
なぜ、涙が出るのかわからない。
悲しいのか、嬉しいのか、腹が立っているのか、辛いのか…何の涙なのか、わからない。
ただ、涙が出るごとに、呼吸が楽になってきた。
私は少しビターな甘いネロリの香りに癒されるように、心の中のものを全て涙として吐き出す。
すると、今まで感じなかった痛みを体のあちこちに感じるようになった。
背中も、腕も、足も…。
ヒリヒリとひりつく痛みや、ズキズキと脈打つような痛み、息苦しくなるような痛み…色んな痛みを全身と心に感じながら、私は体を洗った。
「しみるかな…。」
恐る恐る浴槽に足先を入れると、ふわりとやわらかな温かさが全身に広がる。
私はそのまま、一気に湯船に身を沈めた。
「痛くない…。」
恐怖でカチカチになっていた心がやわらかなお湯にほぐされて、体の奥底から再び息を吐き出す。
(虹色に、ならない…。)
私は、泉での出来事を思い起こした。
『やっぱ、おまえの仕業か。』
「でも…お風呂ではならない…。あれ、私のせいじゃないのかも…?」
小さく呟いて、もう一度あの時のことを思い出す。
「あ…でも、あそこの水、なんか変だったよね。」
泳ぐどころか、身動きもとれなかった。
それに、体が濡れてなかった…。
水のようで水でない…?
(あの不思議な水と私が、科学反応を起こしたのかな。)
神の国では、私はきっと異質なもの。
(存在してはいけないもの、だから…?)
『人間が立ち入ったなどとバレたら、おまえの命はない。』
ゼウス様の言葉を思い出し、背筋がぞくりと震える。
(やっぱり、早く還ったほうがいい…)
その時、自分の体の傷が目に入った。
(でも、またあんな目に遭うかもしれない…。)
一瞬、おぞましい記憶が頭を過る。
私は自分を抱きしめながら、頭を激しく振った。
(怖い!)
必死でその記憶をふり払おうと頭をふる。
(それに、還って意識が戻ったら…。)
家族や友人、警察に色々訊かれるだろう…。
そして恋人…陽にも…。
そこまで想像した瞬間、息が止まった。
(最後までされてはないけど…言いたくない…。)
私は唇をきゅっと噛みしめ、自分を抱きしめる。
(…私、なんかしたのかな…。)
(誰かの恨みを買うようなこと、しちゃったのかな…。)
(やっぱり、それをハッキリ掴まなきゃ、還ってもまた同じことを繰り返すだけ。)
(…ゼウス様は、なんでもご存知なんだよね。…訊けば、教えてくださるかな…。)
そこまで考えて、私はゆるく頭をふった。
(ここまでお世話になってるのに、それは甘えすぎ。)
そして、気合いを入れるように、自分の頬を両手で叩く。
(思い当たることを、全て紙に書き出してみよう。そしたら、なにか掴めるかも。)
そう決心すると、浴槽から上がる。
脱衣場に行くと、傷薬が用意されていた。
ヘラ様の細やかな気遣いに嬉しくなりながらも、神の国に薬が存在することに驚く。
(神様も、怪我するってこと?)
『神だって、くしゃみくらいす…くしゅっ!』
先程のゼウス様を思い出し、私は思わず吹き出した。
(全能神なのに、全然全能じゃないじゃん。)
人間ぽいその様子に、私は少し親しみを覚える。
(容姿は人間離れしてるけど、くしゃみしてたし、ショコラショーでほっこりしてたし、欠伸してたし、眠くてフラフラしてたし…。)
ゼウス様の神様とは思えない姿を思い起こすたびに、頬がゆるんだ。
自然と、笑いがこみ上げる。
ヘラ様が用意してくれた服を手に取ると、それはシンプルながら可愛らしい今時のカットソーにパンツだった。
(神様の世界の服って、神話に出てくるようなローマ時代のストラのような物を想像してたのに。)
そういえば、ヘラ様も普段私たちが身に付けているような服装だった。
建物は大理石造りで神殿そのものだし、ゼウス様やヘラ様も人間離れした美しさだけれど、今時の服装で、とても神様には見えない。
私は手早く服を身に付けると、浴室を出た。
そして赤い続き扉をノックする。
するとすぐに中から扉が開き、ヘラ様が顔をのぞかせた。
「お風呂、頂きました。お薬までお気遣いくださり、ありがとうございます。」
私がお礼を言うと、ヘラ様はやわらかく微笑む。
「何か召し上がります?と言っても、私がご用意できるのは、軽食になりますけど。」
はにかみながらそう言われ、私は空腹に気がついた。
でもそこまで甘えるわけにいかない、と首を左右にふる。
「いえ、全然おなかすいてないので」
ぐぅぅぅぅ!
私の言葉を遮るように、お腹の虫が盛大に鳴いた。
「!」
ヘラ様が目を見開いて、私を見る。