①全能神ゼウスの神
恋人
少し歩くと、すぐに神殿があった。
(やっぱり、神様だから神殿に住んでるんだ。)
慣れた様子で裏口から入るその背を追いかけて、私も急いで閉まりかけた扉をくぐる。
そこは天井が低く横幅も狭い通路で、窓もなく暗くてじめじめしていた。
所々にぼんやりと灯る小さな明かりに照らし出される壁にはカビなのか苔なのかが黒く影を描き、それがおどろおどろしく見え不気味だ。
「っくしゅ!」
ひんやりとした通路で冷えるのか、ゼウス様はくしゃみをしながら身震いする。
「ゼウス様、やっぱり…。」
声を掛ける私の前で、急にゼウス様がピタリと立ち止まった。
ゼウス様の体の横から覗くと、どうやら突き当たりのようで小さな扉が見える。
ゼウス様はその扉を開くと、さっさと中へ入り、扉を閉めた。
(え!?)
通路にひとり取り残された私は、状況が飲み込めず立ちすくむ。
(まさか、置いて行かれ…)
嫌な考えが頭をもたげた瞬間、扉が開いてゼウス様の顔が覗いた。
「何してんの。さっさと来な。」
そして再び、扉が閉まる。
(開けて待っておく、ってことはしないのね。)
なんとなく俺様な雰囲気を感じつつ、私は扉を開けて中に入った。
「失礼します…」
言いながら、思わず息をのむ。
薄暗い通路から一変して、目が眩むほど室内は明るかった。
白い大理石で作られ、床に敷かれた赤と金の絨毯が、室内をより明るく見せる。
高価そうな調度品が置かれているけれど、絨毯が華やかなぶん、どれも色やデザインがとてもシンプルで上品にまとめられていた。
センスの良さを感じさせる室内は、暖かみがあり落ち着く広さだ。
思わずキョロキョロしていると、高い澄んだ声がした。
「こちらの方は?」
ゼウス様以外の方もいたのかと、慌てて声の方を見る。
すると、ストレートの金髪に碧眼の、とても小柄で綺麗な女性がゼウス様の影から現れた。
彼女はゼウス様に服を着せてあげながら、私に会釈する。
「御祓の泉で拾った。」
(ひ…拾ったって!)
ゼウス様の言葉に、彼女の目が大きく見開かれた。
「御祓の泉に…人間が?」
(『拾った』発言より、そっちに反応…。)
その驚きようから、あそこにいた自分の状況がいかに特殊で異常なことなのか理解する。
「そ。めいがいて、びっくりした。」
突然、名前を呼ばれ、私は飛び上がった。
「す…すみません!」
(っていうか、その口調、全然びっくりしてないでしょ。)
相変わらず淡々とした口調のゼウス様に頭を下げながら、首を傾げた。
(あれ?私、名乗ったっけ?)
「いや。殴りはしたけど、名乗りはしてない。」
「…っえ?」
金髪の女性が碧眼を見開いて、私をふり返る。
私は苦笑いを浮かべながら、目を逸らした。
(一言余計…。)
(でも…なんでもわかっちゃうんだ…。)
「悪いね。」
(…全然、悪いと思ってなさそう。)
ため息を吐く私をよそに、ゼウス様は赤い大きなソファーに横たわった。
「お待たせしました。」
女性がゼウス様に手渡したマグカップからは、甘いミルクとチョコレートの香りがする。
(あ、この香り…。)
借りているシャツについていた甘い香りは、ショコラショーだったのだ。
(服に香りが移るくらい、ショコラショーがお好きなのかな?)
ソファーにうつ伏せになったまま、右手でカップを持ち、左手でチョコレートを溶かしながら口に含む。
(左利き…。)
「…あったかい…。」
ため息混じりに呟くその口元は、無表情ながらも微かにほころんでいるように見えた。
(…可愛い。)
そう心の中で無意識に呟いた瞬間、ゼウス様の無機質な金の瞳が私をとらえる。
(!)
反射的に身を固くすると、ゼウス様は私を見つめながらショコラショーをもう一口飲んだ。
(ごめんなさい…。)
とりあえず、心の中で謝って目を逸らす。
「…ヘラ。なんか服用意してやって。」
なぜ謝られたのかわからない様子で首を傾げながら、ゼウス様は女性…ヘラ様に指示を出した。
すると、ヘラ様はにこやかに微笑んで頭を下げる。
そして、優雅な物腰で私に近寄ってきた。
「こちらへどうぞ。」
やわらかく微笑みかけられ、ようやくホッとする。
私はヘラ様に笑顔を返すと、ゼウス様にも頭を下げた。
「お気遣いくださり、ありがとうございます。」
ゼウス様はそれには応えず、ショコラショーを飲み干すと、カップをテーブルに置きながら大きな欠伸をする。
「還りたくなったら、なるべく早く言いなよ…。」
そう言いながら、目を閉じてしまった。
綺麗な弧を描く瞼を彩る長い睫毛まで白銀色で、寝顔も彫像のように美しい。
「ソファーで眠られては、またお風邪を召されますよ。ベッドでお休みください。」
くすくす笑いながら、ヘラ様がそっと体を揺すった。
その碧眼には愛しさが溢れていて、私はハッと思い当たる。
(そうだ。神話では、ゼウス様の奥様は『ヘラ様』だ!)
(じゃあ、この方は…奥様。)
まだ20代前半にしか見えないゼウス様に奥様がいたことに驚きながら、私は二人を見比べた。
(ヘラ様のほうが、ちょっと年上っぽい?)
「ゼウス様。」
ヘラ様はゼウス様の頬を、長くて細い指で愛しそうに撫でる。
「…ん…。」
すると、ゼウス様はもう一度大きな欠伸をしながら立ち上がると、フラフラと青い扉へ歩いて行った。
「還る気になったら…寝てても起こして…。で、私が寝てる時に、めいが見つからないようにヘラ…気をつけて…。」
「はい。」
言いながら扉の向こうに消えるゼウス様に、ヘラ様は頭を下げる。
ほぼ眠ったような状態だったのに、そんな中でも私のことを気にかけてくれるなんて…。
(無表情で喜怒哀楽もわからないけど…優しさが伝わってくる。)
胸を熱くしていると、ヘラ様がこちらをふり返った。
「こちらへ。」
やわらかな笑顔を向けられ、私も笑顔を返す。
そして前を歩く後ろ姿は信じられないほど細く、今にも消えてしまいそうなほど儚く見えた。
(色も抜けるように白いし、キレイだし、ちょっと乱暴に扱ったら壊れてしまいそう。)
(こういう人を『守ってやりたい』って男性は思うんだろうな。)
マシュマロな残念ボディの自分とヘラ様を見比べて、私は小さくため息を吐く。
「どうぞ。」
そんな私の前で、ヘラ様はゼウス様の部屋の隣にある黄色い扉を開けた。
「失礼します。」
一礼して中に入ると、ヘラ様が音を立てないように静かに扉を閉める。
(ゼウス様を起こしてしまわないようにする細やかな気遣いが素晴らし…)
(わ!?)
部屋の中央にどんと置かれた、存在感たっぷりのクイーンサイズのベッドが目に入り、私はゼウス様とヘラ様のあれやらこれやらを一瞬で想像してしまい、恥ずかしくなって思わず俯いた。
「その服は、どうされますか?」
ヘラ様の言葉に、部屋の姿見に映る自分を見る。
そこに映った私は、シャツもスカートもストッキングも泥まみれで破れ、あちこちに擦り傷を負っていた。
初めて自分のぼろぼろな姿を知り、私は言葉が出なくなる。