睡蓮の書 五、生命の章
精霊を組み合わせ造り出されたこれらの獣を退けるために、ラアの手を煩わせるまでもなかった。彼らにとっても、それは下馴らしのようなものであったろう。
地に伏せられた大量の残骸。それらを振り返ることなく、ラアはただ進んだ。
生きたものの気配がすっかり無くなったころ、その先に方形の戸口が見えはじめた。キレスが光を消し去ると、それはちょうど闇の中に四角い青ガラスが浮かんでいるように見える。狭く絞られた、ただ一つの出口――。
ラアがそこに差し掛かろうというとき、すいとヤナセが前に進み出た。ラアはそうして初めて足を止める。カナスがそしてシエンも、ヤナセを掩護しようと戸口の両側に立つ。
左右に目配せし、ひゅと一呼吸。
そうしてヤナセが青の夜天に一歩進み出たその瞬間、狙いすましたかのように多数の敵の攻撃が一気に降り注いだ。
ヤナセは動じることなく、迎撃とばかりに爆風を生じた。自然界の大いなる力を司る四大神の名にふさわしく、彼の力は大気の満ちるその場のすべてに及ぶかのように広く、それも瞬時に放たれ、四八方から注がれる弾雨の一切を薙ぎ払う。
びりびりと身体に刻まれる大気の振動、その音をして耳を塞ぐ爆風が収められると、力の規模に圧倒されたのか、あたりはしんと静まり返った。
戸口をくぐりながらカナスは注意深く水上の廊を見やった。うっすらと霧の漂う、蜘蛛の巣のごとく張り巡らされた道、それを結ぶ無数の部屋。白く浮かび上がるそこかしこに、北神の気配を感じる。
空中にもまた、ちらほらと北神の影が見られた。――しかし何よりも目を引いたのは、まっすぐと見上げたその先、高く天空に身をとどめる北の主神。
生命神ドサム・ハピである。
遠く上空に浮かぶそれが彼とわかるのは、その姿を覆う紺碧の光のためである。夜の闇に柔らかな光を放つそれは、生命神ドサムが中央の上空で見せた光景を思い出させる。空に浮かぶ魚の群れ――夜闇に溶ける透きとおった姿をして、尾やひれを揺らし、天を悠々と泳ぐ。その鱗がちらちらと光る様子が、水底から見上げた水面の揺れのようで、まるでここが深い水中の世界であるかのように錯覚させる。
美しく、幻想的なその光景は、そこが戦場であることを忘れさせ、またその悠然とした魚の動きを思わせる鱗のきらめきが、時の流れをひどく緩やかにしているようだった。
ラアが、たんと地を蹴り、天に向かう。
停滞する時を引き裂くように――そうして、再び戦場の時は動き出した。
方々から放たれる攻撃に、ヤナセはすぐに地を離れると、大気の渦を広範囲に広げて盾とし、それらを受け止め払い去る。
王の進む道を遮らせてはならない。その同じ目的のために、宙をゆく力のないカナスは地上の敵に狙いを定めた。白の廊を滑るように駆け、霧を払うように手した槍を振り下ろし、突き刺し、薙ぎ払う。
シエンは、地の力で足場を作り天をゆく彼らを追おうとしていた。が、
「おい!」
キレスの声が鋭く耳をつく。シエンはハッとして振り返った。睨むように彼を見据えたキレスは、こっちだろ、と促すように顎で別の方を指す。
(そうだ、俺の目的は――)
「どこへ行く!」
上空からヤナセの声が、身をひるがえしたシエンの背に投げられた。しかしその目は長くこちらを捉えてはいない。諸方から繰り出される北神の攻撃に、彼はひとりで応じなければならなかった。
こんな状況で――しかし脳裏の非難を振り払い、シエンはわずかに振り返ると言った。
「ラアを……王を、頼む」
瞬間、ぬっと伸びたキレスの腕が彼をつかみ、二人の姿は忽然と消えてしまった。
(いったい、どういうことだ)
ヤナセは眉を寄せる。しかし状況が思考の余裕すら与えてくれない。執拗に繰り返される攻撃――それも一点からではもちろんない――を払いながら、ヤナセは小さく舌打ちをした。
水上の廊で奮闘するカナスの姿が、黄金の槍のきらめきから知れる。敵を一つずつ確実に仕留めていく方法は、しかしこれだけ数が多くあると思欲しい効果をなかなか得られない。
ラアはまるでかまうことなく、ぐんぐんと上空へ向かっている。その彼へ向けて、今も敵の攻撃の手は休まらない。風でそれらを払いながらヤナセは焦りを覚えていた。守る対象があるというのは、ただ敵に対するのとは勝手が違う。気を張るためにかずいぶんと消耗するものだ。第一、多勢に無勢にもほどがある。いったいいつまで攻撃が続くのか――いや、自分が、持ちこたえられるのか。
問題は、数だけではなかった。
「……あの男――」
宙にある北神の中に、見覚えのあるものを捉える。
中央で対し、ヤナセ自身が葬った北神。火属の最高位であったその男は、今は瞳にあの鮮やかな朱色はないが、その特徴的な……年老い垂れたその皮膚から、すぐにそれと分かった。
しがみついていた「長」の地位を奪われ、今は一介の火属神として戦の場にある。……だが、
「どうやら再生した今の方が、手強いようだな」
ヤナセは冷笑する。事実――皮肉なことに――再生者には恐れの感情がないため、こちらの攻撃に怯むこともなければ身を庇おうとすることすらない。どれだけ傷を負おうとも攻撃の手が緩まらず、非常に厄介である。
彼らに精霊を引き寄せ操る力がある以上、それは器を与え動かしただけの傀儡とは違う。精霊を超えるものとしてその権威をも再生されているということは、やはり驚くべきことだ。人らしからぬ奇妙な様相も、戦場においてはむしろ好適であり、兵器としてはうってつけと言える。その攻撃を止めるには、肉体の限界まで力を使い尽くすのを待つか、もう一度確実に殺すしかない。
(おそらくこの場のほとんどを占めているのが、それだ)
北の生存者は、いまやこちらと変わらぬ数だと聞いていた。しかし、これほど多くの再生者があるとは。そして、ここまで手こずらせるものだとは。
ヤナセは荒い息を吐きつつ周囲に目を配る。風神の力は広範囲のものに及びはするが、その力で敵の力を寄せ付けず、弾くことまではできても、同時に確実に仕留めるものとはなりにくい。かといって、守りを解いて個々に対することは、状況が許さないのだ。
(耐久戦、か――しかしこれは、さすがに……)
焦りが疲弊を倍増させ、苛立ちを呼び起こす。
シエンがいれば――高位の神がもう一人いてくれれば随分と違うはずだった。バラバラになるのではとの懸念が的中してしまった。あのとき、やはり声を上げるべきだったのではないか――。
「ええい、鬱陶しい!」
怒声を上げ放たれた風の刃が、北神らの手足を、腹を引き裂く。――しかしほとんどは、堪えた様子もなく、何事もなかったかのように再び攻撃を仕掛けてくる。その千切れかけた手で。傷口が割けたまま。狙いが外れようと、それが自身を傷つけようと、彼らはかまおうとしない。まるできりがない――。
(“再生者”め……!)
そのとき再生者の一人だろう、身一つで飛び込んでくるものがあった。肩がぱっくりと割れ、腕も垂れ下がりながら、へらへらと笑みを浮かべ突進してくるその男を目にした途端、ヤナセの脳天をカッと怒りが突き上げた。
作品名:睡蓮の書 五、生命の章 作家名:文目ゆうき