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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 五、生命の章

INDEX|37ページ/38ページ|

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 小さい頃は、素直にそうなのだと信じていた。マキアのする昔語を聞きながら、なんて勝手なんだろうとひとり憤りを覚えていた。父はそのせいで死んだのだ。妹だって、戦がなければ、自由に喋れたかもしれない。決して許してはならないのだと、そう思っていた。
 けれど……成長していくにつれ、自分の傍にいつもいてくれる風霊たちが、亡き父の生きざまを知らせ、その思いにふれてゆくうちに、母の言うものとは違う形が、ぼんやりと見えるようになった。
 なにより、ネフェルテム……生命神と太陽神、ふたつの力を父とし母とする彼を見ていると、思うのだ。――間違いと母が言うものは、ほんとうに、それだけだろうか、と。
 そうしたものが生み出すものは、否定するものばかりではないはずだ、と。
 イオクスはちらりと傍らの友人を見る。ネフェルテムはぱちりと瞬くと、あっと声をあげ立ち止まった。
「イオクス、怪我してる!」
 そうして膝のすり傷に手をのばす。
「こんなのほっといて大丈夫だって」
「ほっとかない! ちょちょい、っとやれるんだから」
 彼の言う通り、傷はあっという間にふさがった。――これが、生命神ドサム・ハピの息子である彼の力なのだ。
 ときどき妹の話になると、彼は残念そうに言う。「ハピさまなら、治せたね。いまの僕には、むずかしいけど」と。それからこう続けるのだ。
「でも僕、大きくなったら、もっとたくさん治せるようになるよ。それで、いっぱい元気になってもらうんだ。体も、気持ちもね」
 猫のように、目を細めて。
 イオクスは誇らしげに笑み返す。――彼ならば、できるかもしれない。 
 足が悪かったネイトが立てるようになったのも、ネフェルテムの力だ。最近は、西に住む、ミィルやセネルの父親の眼の傷も、少なくとも見た目には、元の通りに戻せるようになったのだ。
 妹が話すと、どんなふうだろう。その希望は、どこかまぶしいような、怖いような気持ちがする。
 けれど、もしそれが叶わなくても。あかるく周囲を気遣う彼がいれば、妹も、みんな、きっとたくさん笑顔でいられる。
 睡蓮の清い芳香が漂うようにして、彼はまわりの気持ちをほぐしてくれる。
 それは傷を治すようには目に見えないけれど、きっととても大事なことなのだ、と、イオクスは漠然と思った。
 それならば自分は、その心地よい香りができるだけたくさんに届くように、助けとなれるといい。
 イオクスはすっと息を吸い込むと、少しうしろをふり返って目配せした。するとひゅうっと風がふき、ネフェルテムの背を押す。
「うわっ!」
「ほら、風の精霊といっしょに行こう。中央までひとっとびだ」
 両手を広げ、つんのめる友人の手をとると、彼は地を蹴った。


   *


「ここ、森があったってほんと?」
 ミィルは父と一緒に、南へやってきていた。母親を迎えに来たのだ。
「でも、戦争で焼けちゃったんだよね」
 六歳の少女はマキアの昔語りを思い出し、消沈したようすであたりを眺めた。
 広く深い森はもう、跡形もなかった。乾燥した大地に、いまは点々と低木が伸びているばかり。こんなところにアカシアやペルセアの大木が育つなんて、ちょっと想像つかないだろう。
「日影が少なくって、暑いよ。私たちの西みたいに、もっとたくさん樹があると涼しいのに」
 そうしてミィルはぽつりと漏らす。
「前みたいに、戻らないのかな」
「……戻ることは、ないかもしれない」と、父親は答えた。「けれど、違う形になっていくよ」
 どういう様子になるかは、わからないけどね。そう言って彼はほほ笑む。
 ミィルはそれに励まされるように、すこし笑顔をうかべた。
 それから日差しを避けるように、父のつくる影に飛び込む。父が少し身をかがめ、やさしい眼差しを注ぐと、ミィルは有頂天になって飛びついた。姉たちや弟に邪魔されず、父をひとり占めできるのが久々に感じたのだろう。
 けれどそのくすくす笑いは途端にやんだ。父のからだに抱きついた小さな手は、片方だけ父の腕に触れない。
 ミィルは気づかわしげに父を見上げ、それから彼の、腕のなくなった右肩をみつめた。
「……痛い?」
「もう、ぜんぜん平気だよ」 
 けれどミィルの目にはみるみる涙がわき上がる。あやすように父親が抱き上げてやると、ミィルは大事なものを離したくないというように、ぎゅっと父にしがみついた。
 と、むこうから母が、姉を連れてこちらに向かってくるのが見えた。
「お母さん!」
 あっという間に笑顔に戻ると、少女は父の手をはなれ駆けだした。
 母と娘たちの様子を眺めながら、彼はふうっと息をつく。
 十年前の戦跡をいまも残すその神殿は、守るようにしてあった森を失い、寂しくそこにたたずんでいる。
 半分ほどは崩れたそれを、彼は他の神殿のように新しく作りなおすことはせず、傷んだところを補修するにとどめていた。そこに移り住んだ母子が望んだためだ。
 子供のころの半分を過ごしたこの場所。郷愁にかられ、彼はしばらくぼんやりとそこにたたずんでいた。
「相変わらず子煩悩だなシエン」
 ハッと声にふり返る。いつの間にそこに現れたのか、紫の瞳が彼を見下ろしていた。
「キレス。……お前も、変わらないな」
 まるで時を止めたかのように。――シエンはなにか言いたげにまた口を開いたが、しかしふっとそれを吐息に変えた。
 彼と会うのはしばらくぶりだ。ほとんどの時を北の地下で過ごしているのだろう。
 西に戻らないのかと。戻るべき場所に……、そうたずねたかった。しかしなんと言葉にしていいのかわからない。彼は、なぜ南にやってきたのだろう? もしかしたら……複雑な思いがくすぶる。
「しばらく、ここに居るのか?」
 やっとの思いで、それだけ口にしたが、
「……べつに」
 キレスはいつも通り、そっけなく答えるだけだった。
 娘たちがこちらへ駆けよるのが見えた。シエンはそれを、片手を広げて迎えてやる。
 キレスの気配はもうどこにもなかった。

 戦は終わった。敵対するものなどどこにもない。
 ただ深くえぐっていった傷跡を、癒していくには、たくさんの時間が必要なのだ。
 大地の姿も、人の心も。
 ここは、自分たちが出会った場所。
 静かなとき、変わりゆく風景。
 そして、変わらない、太陽――。


   *


 新しく建てられた中央神殿には、城壁がない。
 太い列柱の森をとおりすぎ、中庭をそのまま突っ切って、二人の少年――イオクスとネフェルテムは、奥の扉をひらく。
 そこは柱が左右に並びたつ薄暗い広間だった。奥の壇上はそこだけ、陽がふりそそいでいる。
 その真ん中に、空の玉座が見えた。
 ネフェルテムはぱちぱちと瞬き、イオクスをふり返る。すると彼はそっと目配せし、玉座の隣に視線を送った。
 促されて見ればそこに、背の高い男神が立っていた。白衣に身をつつみ、やはり白い包帯に形がわからないように隠された両手で、幅広の杖をにぎっている。
 その男性が目を伏せると、天井の明かり取りから陽光が鋭く、筋をひいて射し、玉座をまっすぐに照らした。
 あまりのまぶしさに目がくらむ。ネフェルテムはぎゅとまぶたを絞り、目を凝らした。