睡蓮の書 五、生命の章
終章
――金色に燃えると、鳥はどこまでも高く飛べそうでした。
ぐんぐん、ぐんぐん、高く高く。
今度こそほんとうに、お空のいちばん高いところへいくのです。
そうしていつしか、お日様になったということです。
「……おしまい」
そう言って、マキアはにっこりと笑みかけた。
東の神殿の一室に子どもたちが集まっていた。最前列で姉とともに話を聞いていた、三歳の男の子が、ぱちぱちと手をたたいた。
「ね、セネル。お日様、鳥さんだったねえ」
姉がおさない弟に語りかける。
「おひさま、あつい」
弟セネルが答えると、
「そうね。でも、ないと暗いし、寒いの」
そう教える姉の様子を、マキアは頼もしく見守っていた。……と、
「はい。鳥、しんだー」
「ちがうよ、ホルアクティさまは生まれ変わったんだよ!」
そのうしろで喧嘩が始まった。
「一緒だろ、うるさいなあ。あーもう飽きた」
「ちがうよ、ちゃんと聞きなよ! だいじなお話なんだよ!」
その剣幕におされてか、セネルが姉のうしろに隠れた。姉はその場を離れようと、むこうで黙って文字を書きつけている少女へ近づき、声をかける。
「きょうは、イオクスお兄ちゃん、いないの?」
この中では一番年長であるその少女は、ペンを持つその手を止め、とぼけたような笑みを浮かべて、首をかしげて見せた。
口元に傷があるこの少女が言葉をうまく発せないのを、皆よく知っていた。けれど豊かなその表情が、言葉の代わりなることもある。
マキアが目配せすると、少女はちらと遠くを見た。くすりと笑って、マキアは姉弟に伝えた。
「イオクス、また北に行ってるんですって」
とおい? セネルが尋ねると、姉はしゃがんでそれに答える。
「遠いよ。きょうお母さんたちが行ってる、南と同じくらい遠い。……でも、お父さんがいるから、お母さんすぐ帰ってくるね」
「ん!」
姉の笑みに安堵したように、セネルは元気よくうなずいた。
*
黒髪が風になびく。耳には大きな輪飾り。
大河の下流にひろがる湿地を、イオクスは水しぶきをたてて駆ける。
風にゆられるパピルスや葦は、その半分が水につかり、河の流れに従ってゆらめいている。鳥たちがえさを求め水上に降りたつ羽音。魚たちがすいと泳ぎさるその影。水面はきらきらとまぶしい。
ここにはかつて大きな神殿があったという。今ではすっかり崩れてしまって、その瓦礫があちこちで、水面に顔を出しているばかり。
その瓦礫のそばに、イオクスはふたつの人影をみつけた。くずれた石に向かい、女性が身をかがめている。その傍らに、自分より年上の少年がたたずんでいた。
(ネイトさんたちだ。……お参りかな)
ここは戦場で、多くの命が失われたのだと聞いた。瓦礫のように見えるものはお墓かもしれない、とイオクスはおもう。
北の住人とは、敵対関係にあったのだと母は言う。長いあいだ、憎み合いいがみ合ってきた。互いに仲間を殺された恨みがあるのだと。
だから近づいてはならないと、イオクスは小さい頃から言い聞かされてきた。
(昔のことなんて、関係ないのに)
はじめは怖れていた彼も、成長するにつれ、母の言うことがどれだけ本当だろうと思うようになった。持ち前の好奇心も手伝って、ちょっと見てやろうとここを訪れたのは、何年前だったろう。
(母さんの言うこと信じてたら、会えなかった――)
そんなことを考えていると、草が足もとに絡みつき、イオクスは思いきり転んでしまった。
「いたた……」
顔をしかめて立ち上がろうとすると、ぐいと腕をつかみ、ひきあげるものがあった。
「あっ! ありがとうプタハさん!」
立ち上がるが早いか、イオクスはそう言ってまた駆けだした。しばらく行ってふりかえり、手を振ると、またつまずきそうになる。
「やれやれ。また転ぶぞ」
プタハは呆れたように肩をすくめつぶやいた。
イオクスは石灰岩のまぐさをかけた白い門にむかっていた。
そのむこうに、小さな建物が見える。
周りより少し高くなった、円柱がぐるりと囲うその中には、池があるのだ。
たくさんの緑が生い茂る、そのしずかに凪いだ池にたどりつくと、イオクスは水面に向かい、おおきな声で呼びかけた。
「ネフェルテム!」
すると、それに応えるように、池の中央で睡蓮の茎がすっとのびあがる。
そうして天のように深い青色をした睡蓮が、ぱっとその花弁をひらいた。
中心部にひらく金の花糸。そこに陽光がそそぎ、まるで火を灯すように光をぼうっとにじませたかと思うと、
そこに、少年が姿を現した。
イオクスとおなじ年頃の、おなじ焦げた肌をした、ネフェルテムと呼ばれた少年。ただ髪の色だけは珍しく、足元にさく睡蓮の花びらと同じ青色をしていた。
「おはよう!」
そう言うとネフェルテムは水面をとびはね、イオクスのもとへ向かった。
「あのねイオクス。きょうは僕、なんと……ホルアクティさまのとこに行くんだよ!」
ネフェルテムはぱっちりと目をひらき、声を弾ませた。
花びらの色をそっくり写したような紺碧の瞳。その奥には、金の星がちかりと灯る。
「だーから」とイオクスは答えた。「呼びにきたんだよ! おまえ、ねぼすけだからな」
もう、おはようじゃないぞ。イオクスはそういって腰に手をあてる。
ネフェルテムは池にしゃがみこみ、顔をすすぐと、
「昨日ちょっと夜更かししちゃったんだ……」
ひみつをするように、声をひそめて話しだす。
「夜に知らない人がやってきたんだ。僕らと同じくらいの男の子」
イオクスはぱちりと瞬いた。同じ年頃の男の子なんて、もう一人しかいない。
「南のスールだな。ガリ勉の、ちょっとやなやつ」
「知ってるの?」
うなずく。彼は妹と同じ年で、でもいつもツンとしていて、誰ともあまり親しくしないのだ。
「じゃあ今度おしえてあげてよ。地下はキレスさんしか入れないって。入口でずっとうろうろしてたんだ」
「……あっ、そうか。スールのお父さん、そのひとの兄弟だって聞いたことある。用事があったのかも?」
合点がいったようにうなずくイオクスに、ネフェルテムは感心したようにつぶやく。
「ほんと、よく知ってるねぇ」
イオクスは人に会うのが好きだった。母やマキアに聞いたいろんな人のことを、自分の目でたしかめたい、もっと知りたいと思うのだ。風の精霊が力を貸してくれるので、こうして遠くに行くこともできる。
「お父さんの兄弟かあ。……ホルアクティさまやハピさまにも、兄弟がいたのかなあ」歩きながら、ネフェルテムはなんとなく言った。「ああ、ホルアクティさまに会うの初めて。緊張するなあ……どんな人だろう?」
イオクスは思わず足をとめる。
太陽神ラア・ホルアクティ。ネフェルテムにとって、父であり母である人。
イオクスの母は、何度もこう繰り返した。――十年前の戦は、太陽神の犯した過ちであると。太陽神は、罪のないものを巻き込み、多くの命を奪った元凶であると。
作品名:睡蓮の書 五、生命の章 作家名:文目ゆうき