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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 五、生命の章

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 風がない。
 大気の動きを生む出すことのない闇は、不気味なほど静かだった。
 プタハは火をともし、積み上がる瓦礫を映す。
 死を求めたわけでは全くないが、生き延びるとは考えていなかった。割れた大地のくぼみに溜まった水に落ち、そのうえに積み上がった瓦礫が、外界の影響を阻んだのだろう。
 運だった。良かったのかどうかは分からないが。
 あたりを見回す。ところどころ火が瞬いたが勢いはない。やがて消える炎である。灯しびをかかげ照らすが、ただ黒々とした影が広がるばかりである。ふとよく見ると人の肢に見えるものもある。プタハは眉をひそめ、灯を遠ざけ他を探した。
 はっとした。探している? ――そのとき初めて人の気配を求めているのだと自覚し、自嘲的な笑いがもれた。
 今まで一度たりとも、誰かと共にあることを求めることなどなかった。独りであると確認することも、それを忌むこともなかったのだ。
 可笑しなことだ。……だがやめようとは考えなかった。否定することはないように思えた。
 熱傷はまだじくじくと痛んだが、それを紛らわすためにか、彼は歩いた。歩き、瓦礫の影を照らす。命の存在を求めていた。そこに生者があると、目でとらえなくとも彼にはわかるはずである。しかし彼の力をもってそれを探すことを、すぐにはしなかった。
 彼は地下にもおりた。大地はひび割れ、落ちたのかせり上がったのか分からない突起がいくつもあるので、はっきり降りたのかどうかもわからなかった。どこもかしこも暗いので、そこが地下であったこともわからない。
 人の影があると知り光をかかげる。人だった、それはいくつもの人の姿。大人と共に幼いものがより集まり、果てた姿であった。プタハは顔をしかめ重い息を吐く。
 と、ひとつ、いまだ灯る命を捉え、プタハは駆けよる。真っ黒にすすけた肌の少年を抱き起こすと、冷えきったその身体を温めてやった。
 しばらくすると少年はうっすらとまつげを震わせ、ぱさぱさの唇を微かに開き、何かを訴えた。
 水だ。思うと同時にプタハは胸を引き裂かれるように感じた。水など、もうどこにもないのだ。
 少年の傷を癒すすべも、彼にはなかった。少年を抱え、彼は別の道をゆく。
 しばらく行くと、がつがつと何かを打ち付ける音を捉えた。
 プタハは注意深く音をたどった。それは容易には崩されそうにない、壁のように積み上がる瓦礫の向こうから聞こえるようだ。人の呼吸も耳に届く。
 瓦礫の隙間から明かりを差すと、女神ネイトの姿があった。
 プタハはかつての部下でもある彼女にかけるべき言葉を、思わず呑みこんだ。小さな命を腕に抱き、人を求めさまよう自分の今の姿が、過去をおもえば奇妙に感じ、どこかためらいが湧いたのだ。
 しかしネイトの様子を映すとすぐに、そうした考えは捨て去られた。
 彼女は土を穿っていた。息を荒くして、一心に、ただそれだけを繰り返していた。足をつぶしたらしく、地に這うような姿で、手にした石を狂ったように地に打ち付けている。何度も、何度も。
 その異様なありさまに、プタハののどに酸いものがのぼった。苦い息を吐き、彼は踵を返す。
 と、そのとき、彼の耳にかすかにふれる音があった。
 土を穿つ音でも、荒い呼吸でもない。
 まさか、と彼は思った。
 それは弦楽の音である。よく生命神ドサム・ハピが奏でていたあの竪琴の音に似ている。
 幻ではないか。そう考え、もういちど息を殺し耳を澄ませる。――微かだが、やはり聞こえる。
(ネイトは、これを聞いていたのか)
 主はまだ、生きているのか――?
 途端に彼は表情を険しくする。主のもとにあってなすべき責務が己にあると思い出されたためだ。
 プタハは腕に抱いた幼子をちらと見た。孤独に弱っていた自身の心を自嘲したが、どこかで安堵が湧いたのも確かだった。これでこの少年は助かるのだ。
 壁とそびえていた瓦礫をどうにか越え、プタハはネイトのもとへ向かった。音はやはり地下から聞こえるようだった。ネイトは地下を結ぶわずかな孔を開こうと、周囲を掘っているのだ。
 火をかかげる。奥は真っ暗で何も見えてはこない。
 耳を澄ませる。音はやはりそこから漏れている。しかし――プタハには、その奥に命の存在を微塵も感じとることができなかった。
 幻か。――プタハはふっと息を吐いた。
「あ、あ……」
 声を漏らし、ネイトはその小さな孔に必死で手を伸ばす。
「無駄だ……やめておけ、ネイト」
 プタハは言う。それ自体が無駄であろうと知りながら。
 ネイトは言葉にならない吃音を繰り返していた。主を呼んでいるつもりなのだろうか。プタハはいたたまれなくなり背を向けそこを去ろうとした。
「――あ、ああ!」
 ネイトの声色が変わった。絶望か希望か、何かに心を強く揺り動かされたように漏れるその声に、プタハはわずかに振り返る。
 そうして彼は見た。
 ネイトの手もと、その孔から、じわじわとあふれ出る透明なものを。
 プタハの灯をちらちらと照り返し、みるみる足もとを広がりゆくそれを。
「み、ず……」
 腕の中で少年がかすれた声を上げ、プタハは我に返る。
 手で掬うとそれはひんやりとして、指の間からするするとこぼれ落ちた。少年の口もとに運んでやると、黒くすすけた肌を洗い流すように筋を刻んだ。
 水だ。地の底から湧き出ているのだ。
 ネイトははらはらと涙を流し、わが身を濡らすその水に浸っていた。
 焼け煤けた神殿址を洗い清めるようにか、その水は尽きることを知らず、地に広がりしみてゆく。
 くるぶしを越え、ひざに達するほどに満ちるその水の中を、プタハはなお彷徨いつづけた。