睡蓮の書 五、生命の章
ふかい地の底。
柱が崩れ天井が落ち、せまい洞穴のようになったそこに、水晶を囲むように湛えてあった池の水は、ただの一滴も残っていなかった。
砕かれた水晶の破片は、池のあったくぼみに、無惨に散らかっているばかりだった。
「お前を救えなかった……」
うずくまる人影が、かすれた声をもらした。
「この私の生に、意味などあったのか」
白い衣を垂れ、ドサムは震える指を水晶の破片に伸ばした。
「聞かせてくれ、ホテアよ。お前は、……お前は、幸福だったのか?」
乞うように声を絞り出し、彼は失ったいとしい命に呼びかける。
「私がお前を生じた。私がこの手で生じたのだ。お前は……、生を受けたことを幸福だったと思うか……」
弱々しく声しながら、ドサムはその脳裏に、この睡蓮の精霊とともに過ごした時をふりかえり、眺め見た。
はじめには何も特別な感情を持たなかった。ただ己の力を知りたいがために、それを顕したのだった――そうした己の薄情さに、身勝手さに、深い悔恨を覚える。
わずかにも、与えられたものがあったろうか。この愛しい存在に、いったい何をしてやれただろう。小さなその花に燃え立つ怒りの感情、そればかりが思い出されてならない。与えるどころか、奪ってばかりだったのではないか。よろこび溢れさせるべき感情を、いつでも抑え込んではいなかったか。
そうしていく度も傷つけながら、自身は与えられてばかりであった。このちいさなちいさな生命に、己の胸はいくどもふるえ、満たされてきた。その身を案じるときも、その行いを叱るときも――そこに眠ってある時、目ざめ花がほころぶとき、望みを訴えるその様子にも――小さな命が応じるたび、大きく心を揺さぶられた。そうして彼は思い、想うことを知ったのだ。
それは、自身を確かに生かすものであったのだ。
「お前を、幸福にしてやりたかった……」
ただ、それだけだった。
しかしほんのわずかにも、それを叶えられたという実感はないのだ。
「遅すぎた……なにもかも」
涙は涸れることを知らない。
その存在が彼にとってそれほど大きなものであると、ちいさな精霊は知っていたろうか。
あるいはそれが当然であると、何よりも疑いなく信じていたろうか。
……ふと、いま彼の精霊が、笑ったように感じた。
それは無邪気な、……怒りの感情を向けるのと同じく、歓びの感情をも、当然受け止められるものと期待する、そうした感情であった。
疑いなく、抑えることなく、素直に向けられる感情。
ドサムはそれを両手ですくいとる。鼻をよせ、唇をふれ、そこにあるものを確かにする。
そうしてひとつの感情を互いに持ちあうと、ふかい安堵が胸を満たし、つながりを知るのだった。
ああ、とドサムはため息をついた。
「そうだった。お前は、笑った。生じたその時に、弦楽を爪弾くときに、それから光を照らしてやるたびに」
ときおり、きまぐれに。
それを今、すっかり思い出した。
ドサムはふうと口元をゆるめた。じんわりと胸にひろがる、あたたかなもの。
それは知らせる。遅すぎるものなど、ないのだと。
「そうだな、ホテア。……そうだったな」
彼の精霊に呼びかけるように、それともそれは、彼自身に確かにするように。
「間違いも多くあったろう。――だが……、
私は、お前と共にあって、幸福だった。……何よりも、お前がそばにあったことが、幸福だった」
それで、じゅうぶんなのだ、と。
ドサムは天を仰ぐ。自身の身が、その洞穴の闇や空気と同じになって、溶けていくように感じた。
そうして感覚の何もかもがあいまいになる中、
彼は見えるはずのないその眼で、見た。
冥い水の上に白い花弁を開き、ぼうやりと灯る精霊の姿を。
頬に指先に、淡い紅をさしたかわいらしいその姿。
彼の親しんだ闇の中に、それが白くまぶしく浮かぶそのさまを。
「そうか、――お前は、光であったのだな……」
口元はいよいよ優しくほころぶ。
そうして彼の姿をした幻は、ついに、闇に溶けて消えてしまった。
洞穴には、砕かれた水晶だけが残されていた。
はじめにあったとおりに。そこには他に、何もなかった。
しばらくすると、その洞穴に、地の底からなにかがじんわりと湧きだした。
静かに、とくとくとあふれ出すそれは、どこまでも透明な色をしている。
止むことなく湧きだす、透明の。
ちいさな波紋を描くそれ。
――おお、
汝が腐敗の地に満ちるを見よ。
生命の歓喜を見よ!
その身は急湍の渦《バアバアト》となり、
再びこの地を満ちゆかん。
天が与え、地が作る、すべてのよきものを、
愛しきものにもたらさんがために。
汝が腐敗、両岸を緑となし、
ネプリの麦を生じたまう。
ヘジュヘテプの亜麻を生じたまう。
その恵みに境の知りたるところなく、
その恵みなくして生きうるものなし。
汝、生命を喜び生かす大河《ナイル》なればなり――
*
作品名:睡蓮の書 五、生命の章 作家名:文目ゆうき