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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 五、生命の章

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 それだけではない。闇はぞわぞわとうごめき、さらに広がりを見せている。広がるごとに吸引する力が増し、彼らが争い砕いた床の岩石をひきあげ、闇の中へと呑みこんでゆく。
 シエンは引きはがされまいと必死で地を踏みしばった。
(こんな……)
 冥府の門であると言った。
 それは、この世とあの世、異界を隔てる門であると。
 あの世からもれ出た混沌の闇がいま、この世を食らい尽くさんとしているのか。
(なぜ、こんなものが――)
 地の求めに応じ、異なる存在を切り離したのだった。
 この世にもれ出る異界のもの、冥府の樹の根なるものを。
 そうして在らざるべきものを断ち、異界の影響を払い去るはずだった。
 しかし今、門の狭間を這い出た根を取り除くと、その隙間から異界の闇がこちら側へ滑り込み、影響はますます強まってしまった。
 まるで彼の剣が、おしとどめていた闇を解き放ってしまったかのように。
 生を呑みこまんと広がる闇が、この世の境、冥府の門を、開け放ったのだ。
(地の霊は、これを求めていたのか……!?)
 決して開いてはならないとされる、禁忌の門。
 その隙間を埋めていた「根」を断ち、そうして混沌に、世界の始まり以前に戻ることを、望んだというのか?
 そんなはずはない。異なるものを拒むその意思は、死を恐れるものであったのだ。
 これをひらき、闇をよび入れることは、死と同じである。そんなことを求めるはずはない。
 だが――結果はこの通りである。
(いったいなにを過ったというんだ……)
 地霊の意思を取り違えたというのか、手段を違えたか、それとも――
 ……分からない。しかしもう、遅すぎる――。
 シエンの身体が、ついに地から引き離される。彼は岩を立ち上げそれを掴むことで地に留まろうとした、しかし次の瞬間、生み出した岩が砕かれ、地より引き離された。
 闇が、絡みつく。
 視界を闇が襲うと、意識もまた遠ざかろうとする。
 そのまま引き込まれ、呑まれてゆく――――
「……っう!」
 呻きがもれ出る。
 シエンは背に受けた衝撃に顔をゆがめた。
 その手がごつごつとした地に触れる。そうして彼は、何らかの力で闇から引き離され、地に落とされたのだと知る。
 見上げると、奥にうごめく闇、そのあいだに人影をとらえた。
「どうにかやれたじゃん」
 いつの間にそこに現れたのか、それはキレスの声だった。
 宙に身をとどめ両腕を広げた彼は、目に見えない力で異界の闇を抑えているようだった。
「あとは俺の仕事」
 肩越しにそう告げると、キレスは天に開いた闇に向き、まるで独り言のように小さくつぶやく。
 来たよ。約束どおり――と。
 それから彼は、すう、と深く息を吸い込むと、胸を反らし目を閉じた。
 紫の、光とも闇ともつかぬ彩が、ちらちらと瞬きながら暗闇の中をひろがった。するとその場に不気味に響きわたっていた鳴動が、しだいに息をひそめてゆく。
 目を開き、キレスは闇の中心をじっと見すえた。闇はいまだ渦を巻き、彼の力を警戒するように低く唸りをあげている。
 キレスは闇の奥に呼びかけた。声とはつかぬその声で。

  われは知る。
  その門扉を閉じるべきもの、その双つの名を。
  その門の奥に座す、彼らの主のまことの名を。
  左右の扉葉となるべきは、主を守護するその両腕《awy》。
  その閂は、雄雄しき力をかたどる双つの大いなるもの《aAwy》。
  われ西方の秘儀を心得ん。
  我が名、此岸に於いて門を綾なすものなればなり――

 ……すると闇の奥から、それに応えるようにして、低く低くとどろきが生じた。
 それはうごめく闇の音なのか、闇そのものの声であるのか。抑揚なくつむぎ出され、その場を満ちてゆく。
 やがて闇の渦が、遠ざかる。
 シエンは身を横たえたまま、遠くで懐かしい声を聞いた気がした。
 母の、姉の、……そして友の。
 ふっと表情を緩ませ、彼は静かにまぶたを閉じそのまま、意識を手放していた。
 キレスもまた同じ声を聞いたろうか。あるいは彼にとって親しくあった者の声を。
 闇をじっと見据えていたキレスは、その目をくっとひきしぼり、一度そこから目を逸らした。
 消耗したように深く息をつき、それからふたたび顔をあげると、彼は収縮する闇が完全に閉じるまで、黙ってそれを見届けるのだった。


   *


 生命神の膜は砕かれ、ラアの力が世界を覆う。
 闇を払い、白く染め上げる強烈な光。
 まるで真昼の光である。……否、それは真昼のそれよりもはげしく輝き、天を地を突き刺した。
 地のすべてが炎をあげ燃えていた。水分を奪い去られ、地はそこかしこで亀裂を生み、割れ砕けた。
 ドサムはその残酷な力に焼かれ、四肢の先からぼろぼろと形を崩しはじめた。
 肉を焼き、骨を熔かし、血を気化し、――その姿は見る間に形を欠いてゆく。
 しかしドサムはそれを再び戻そうとはしなかった。
 身を守る意識を手放した肉体は、あまりに脆いものだった。その身を癒す力、彼の無意識から生じる、その本質となる力も、まるですっかり枯れ果ててしまった。
 声もなく、音もかき消し、四肢を奪い去ったその黄金は、胴を這いあがりなお蝕みつづける。わずか数秒の間に、その姿は急激に失われていった。
 ……そのとき、
 ひとつの音が、ドサムの意識を呼び戻した。
 微かな、幻のような音だった。彼以外にはとらえることのできない、しかし彼にははっきりと届けられる、その音。
 それは水晶が割れる音。地の底深くに、彼の精霊を守るように閉じていた水晶が、砕けちる音。
 いとしみ守り続けたもの――その生命が、絶たれてしまった音だった。
「――……!」
 ドサムの意識が、うちがわで激しく逆巻いてゆく。
 つねに南から北へ、ゆうゆうと流れていたその河が、突如、泡をふき波をたて逆流するかのような――これほどの激情が彼のうちにあったことを、彼自身も知らなかった。
 それは意識を呑みこみ、既に失われたその身のすべてをめぐり、いま残された彼の唯一の部分である頭部へと駆けあがる。
 失いゆく彼の身そのままを力に変え、それは深く青く、荒波のごとくあふれ出た。
 蝕まれゆく頭部の傷口からも、その力は幾筋も立ち上がり、ただ一点、ラアの生み出す輝きの奥へと突き進んだ。
 互いに互いを纏わせるように、その深青の力は細く一つに集わされ、ラアの放つ力に抗い進み……、
 そうしてついに、黄金の洪水の中心に達すると、
 その力はまっすぐに、ラアの額を貫いた。