睡蓮の書 五、生命の章
それに呼び覚まされるように、キレスのうちに微かな意識の火が灯る。
(どうして、引き上げてくれなかったんだよ)
そこは暗い。何も見えてきはしない。
彼は思った。いまだ地の底にあるのだと。
深い深い底のほう、穴の奥に、ずっと独りでいるのだ。誰もみな遠く、地上から見下ろしているばかりである。
以前はそのことを知っていた。よく知っていた。それを、すっかり忘れ去っていたのだ。隣にいたから、ひとりでなかったから――この場を出たわけではないのだと、それに気づいていなかった。
(おかしいだろ……なんでお前が下りてくるんだよ。ひとりでないと安心させて、それでどうするんだよ。慰めてどうするんだよ!)
それを望んだ、たしかに自分が。
やっとつかんだ軸だった。これさえあれば立てると思った。これまで手に入れたどんな軸とも違う、それは血という確かなもので繋いであった。互いに逃れられはしないからこそ信じられた。今度こそはと、思った。
それなのに――あっさりと奪い去られ、まるで元の通りだ。
いや、元に戻るよりなお残酷だ。一度寄りかかり、憩いを知ってしまったがために。
(またひとりに戻すなら、なんで、……)
彼は変わってしまった。正しい記憶を戻さなかった自分にしたように、それではダメだと、そんなことは許さないと、強く叱ることがなくなった。拒絶の言葉を呑み込んで、どうにか受け入れようとする。そうするしかないのだと、まるで何かの罰か負い目のようにして。
(また、俺のせいかよ)
見上げていた時はずっと強く見えていたそれも、隣にあれば同じだと知った。望みに応じて降りたのではなかった、こんなところに沈んでしまうくらいに弱かったのだ。引き上げる力など持たなかったのだと。
二人でやっと一人前に立てるのなら、支え合ってやるしかなかった。それなのに……、
それを望まなかったのは、自分自身なのだ。
(そんなことは分かってる。でも、じゃあどうすればいいんだよ! ――今更……っ)
時間は戻らない。決して戻らない。そんなものは希望ですらない。戻したとて同じ道を繰り返すに違いないのだ。
(なあ……答えろよケオル――!!)
声を届けるのだと言った。いつでも届くと。
けれど聞こえる声が、本当にそれだと分からない。
――信じられない。
それは過去の記憶を呼び起こしているだけかもしれない。自身の中で都合良くつくられた、夢かもしれない。
記憶などあてにならないと言ったとおりに。彼自身が、それを信じることができないのだ。
近いからこそ。望んでしまうからこそ。
……そうして今も、地の底に、ひとり。
あの小さな黒い欠片は、今も己の手のうちでぶすぶすと煤を吐き続けている。
奥に隠された美しい彩は、求めた者にだけ見えるもの。
そこにあると信じる力が、その彩を生むのである。
作品名:睡蓮の書 五、生命の章 作家名:文目ゆうき