睡蓮の書 五、生命の章
「おれは望んだ。そうして、自分で開いたんだ」
ハピはくっと目を細め、次には不快感を隠さなかった。
「……それはなぜだ。大いなる力を求める、その欲深さのためにか」
「欲……分からない。おれはただ、知りたかった」
ラアは両手を開き、そこに血液とともに流れおよぶ彼自身の力を眺め見た。
「おれの中にある、隠れていたおれ自身を、ちゃんと知りたかった」
はじめは、小さな小さな引っかかりだった。自分の中に、何かが隠れているのだと。
それが何か、はっきりとはわからなかった。ただ父そしてヒキイも、この力は善いものだと言った。敵を打ち倒すための強き「力」だと。
やがてその「引っかかり」を生むものこそが、この力を強く特異なものにするのだと気づき始めた。同時に、それがまだ開ききっていないことに、もどかしさを覚えた。
それからときどき自身の奥に沈みこみ、そのずっと底へと手を伸ばすようになった。ひとりでいる時間はいくらでもあった。望まなくともそうだった。
そうしてそれは北の地下で、ついに開け放たれたのだ。まるで来るべき時を知らせるかのように。
「ヒキイも父さんも、それの正体を知らなかった。見えなかったのかもしれない、だから分からなかった。おれを肯定してくれたたくさんの言葉は、でも、おれの半分しか見ていなかった。誰も本当のおれを知らなかったんだ」
けれど、カムアだけは違った。彼はそれを知り、その形を確かにしてくれた。
奥に開いたこの異質な力を、はじめはやはり望まなかったかもしれない。そうと知ってしまった時は確かに、恐れと拒絶ばかりだった。
けれど、自身のうちにあるものを拒絶してしまえば、それは自身を拒絶することになる。
正しくあるためにこれを抑えるべきか。正しさを捨てそれを受け入れるか。
「……おれは、おれの力こそがおれ自身なんだって、そう考えて生きてきた」
うち立てた己の軸。彼の生の中心にあるのは、太くゆるぎないその軸一つである。
それを作りあげたのは、父やヒキイ、周囲の人々にかけられた肯定の言葉であったかもしれない。……いずれにせよ、否定などできるはずはないのだ。それこそが、自身の真実なのだと。
「だからもう、抑えたり隠したりしない。これがおれの、本当の姿なんだ」
たとえそれが、世の言う善《マアト》から外れたものだとしても。
それは何よりも、自分自身の真《マアト》であるのだから。
「……」
彼らを包む空間の青、景色を消し去り魚の群れの透明な光ばかりを浮かべていたそれが、ざわざわとまたその様相を変えてゆく。魚たちは寄り集まり、より大きなもの――鰐や河馬、牡羊や牡牛の群れ――にその姿を変えると、やはり透明な姿でラアを取り囲み、主の命をじっと待っているかのようである。
「お前は幼い。お前自身のことしか考えられぬほどに」
ハピは低く声した。
「それがどれほど罪深いものであるかを、お前は知らぬのだ。
周囲を広く眺め、そこに息づく多くの生命を、その尊さを知れ。お前が自身を尊ぶように、彼らはそれと同じものを一つ一つその身に宿している。お前はそれらに生かされてきた――それを、お前の身勝手で奪い去ることなど、許されるはずもない」
ラアは答えず、ただその瞳の漆黒がいっそう闇色を深めるばかり。
「お前の言う、本当の姿とは何だ?」
ハピの声は穏やかに、しかし正すべき誤りを鋭く指し示す。
「人の間に生き、有形無形さまざま作られてゆくそのつながりは刻々と変化し続け、何一つ同じを保つものはない。そのように頑なに求め、執心することが何になろう? 広く渡し見れば、お前も同じ一つの現象にすぎぬ」
「……あなたは」と、ラアはしばらく黙った後、口を開いた。「そうやって、あの睡蓮の精霊の声も、聞いてやらなかった」
ラアの言葉は、ハピとぴたりと重なるようにそこにあったドサムを揺さぶった。
(ホテア――私のちいさな精霊)
そうしてドサムの個としての意識が表へと引き出されると、彼の青い眼は再び閉じられ、その眉間には憂悶のしわが刻まれる。
「あの子が何を望んでいたか知ってたんでしょ、でも与えなかった。危ないから――そうやって守ってばかりで、あの子は何を楽しめたの?」
ホテアが欲したもの――もちろん知っていた。しかし傷つくと分かって尚それを許すことなどどうしてできよう? ……できなかった。ドサムにはそれが、どうしてもできなかったのだ。
「あの子は守られるだけで、やりたいこともできずにいたんだ。そんなのは、ほんとうに生きているのと違う。それが生かされているということなら、そんなもの、要らない!」
ラアの主張は、まるで精霊ホテアが言葉をもって訴えているかのように錯覚させた。その衝撃は、彼自身が思う以上に、きつく胸を締めつけた。
その幸福を望んだはずだ、何より望んでいたのだ。その存在を守ること、その身が傷つかず健やかに育ちゆくことを第一に考えてきた。――しかしそのために、望みを拒むこともあった。そうした選択がいくつもあったのだ。
それぞれの選択が正しかったのかどうか、……分からない。ドサムにとっては、生命を宿した存在、その重みこそが平等に尊ぶべき軸であった。それ以外の軸を必要と考えたことなどなかったのだ。
個としての望み。意思の重み、生の質――そのような視点を持もつことなど、無かったのだ。
「あなたはその力で、ヒキイや姉さんの体をよみがえらせた。でも――あんなもの違う。形が同じだけで、もう全然違うんだ。本当にもう死んでるんだ、生き返ってなんかいないんだ!
おれは、そんなもの、許さない」
ラア低く、くさびを打つように声した。
「もしあの精霊がもう一度生きることになったら、きっと全然違うふうになる。絶対に同じにはならないよ。――そうしたら、どうするの……?」
ラアによって、ドサムの前に再び提示されたこの問い。
再び生かそうとするそれが、決して同じにならないという事実。
ドサムは同じにするために、「月」を求めたのだ。ハピが先に語った通りに、「月」の力はその時と場を限れば有用であるはずである。しかし――……
「『本当』なんて無いって、あなたは言う。じゃあどうして、同じものを戻そうとするの? 戻したいもの、それこそが、あなたにとって『本当』だからでしょ?」
先に生じたものと、あとに生じたものは、事実、別である。
先にあったものが「本当」であるとすれば。あとに生じたホテアを、その存在を虚偽と断じてしまうのか? その生には意味がないと、言ってしまえるのか?
――そんなことができるはずはない。その存在の重みを、無視することなどできようか。
では逆に、ホテア自身が「本当」であるとすればどうか。初めにあったものを虚偽とするのか……? それは、あとに生じて初めて知ることであるのに――。
「……どちらが本当か――」
声はかすれ、ドサムはあえぐように答える。
「それを定めることなど、できない……」
言いながら彼は自身の言葉に励まされ、そうして確信づいたようにこう加えた。
作品名:睡蓮の書 五、生命の章 作家名:文目ゆうき