睡蓮の書 五、生命の章
中・生きるために・2、その根
二重に閉じられた地下の「場」。
その二つ目となる厚い石の扉に、シエンは手を触れた。
重々しい音をひびかせ開いたその先にひろがるのは、ただ闇。壁際に灯された火は遠く、全容を照らしだすにはいたらない。
それでもシエンにはわかった。この空間の上部にある異界の気配、それらが脈動するさまが。まるで巨大な生物の体内にあって、それは張り巡らされた血管であるかのよう。――生き物の、ようだった。
「来たか」
闇の奥から声がした。オリーブ色の火がふたつ、灯る。
「待ちくたびれたぞ」
ひたり、ひたりと近づく足音。しだいにその輪郭が、姿が浮かびあがる。
「なぜ俺が、ここまで貴様の侵入を許したか。分かるか、シエン?」
北の大地神セトは、その口元に不敵な笑みを浮かべ言う。
「ここは、死者の弔い場なのだ。冥府の門があるために――いわば、墓場だ」セトはくくと喉の奥を鳴らした。「これほどふさわしい場所はないだろう」
「……」
シエンは天井を仰いだ。この気配……そこに伸びひろがる違なるモノ、その中心にあるものこそが「冥府の門」であるのだろう。
異界の門より出でる、この世に在らざる性質のもの。それこそが、この場へやってきた理由であるのだ。そうした意識が自然とシエンの手に剣を握らせた。
「それが、お前の『ゲブ=トゥムの剣』か」
セトはうっすらと嘲笑を浮かべると、シエンの手の内に現れたその、緩やかな弧を描く翠緑の刃を映す。
「お前はそれをもって、己こそが真の大地神ゲブ=トゥムであると、それを証明しに来たのだな」
黙したままのシエンにかまわず、セトは続ける。
「原初の大地、始まりの地より切りだされたといわれる剣。それは偽りを絶ち、真実を切り出すもの」
そうしてセトは彼の大地の剣、岩石から粗く切り出されたような黒い刃をもつ、重厚な剣を現した。
「貴様の剣と、俺のこいつの、どちらが“真の”『ゲブ=トゥムの剣』であるか――」
そのとき早くも争わんと身構えたセトを制するように、シエンは声した。
「『大地の剣』が、それぞれ全て異なる形をしているのは……、求める真実がそれぞれ違うからだ」
そうして彼は己の剣を眺め見る。
「それぞれの真実を切り出すために、それは相応しい姿をしているんだろう」
ほう、とセトは唸った。
「それはおもしろい。……なるほど、俺の剣は敵を砕くに相応しい。一族の穢れ――裏切り者の存在を、滅するために」
そうしてぐいと口角を引き上げる。
セトの剣は彼の言うとおり、厳然とそびえ敵を威圧し、その重みで打ち砕くためにあるのだろう。厚く幅の広い刀身は壁のように敵を阻み、粗い刃はその傷も一筋では済まさないといった執念を感じさせる。まるで彼の意思がそのまま形をもったかのようだ。
己の剣をはどうだ。刀身も幅も、セトのものにはまるで及ばぬこの剣。……だがそれでよいのだ。なぜなら、
「俺の剣は、敵を討つためのものじゃない」
そうしてシエンはふたたび天を見上げた。
「それは、断ち切るために」
何をと問いかけ、シエンの目線を追ったセトの表情がみるみる強張る。
「断ち切るだと……まさか」オリーブ色の眼が怒りに染まる。「この、樹をか!?」
シエンは目を窄めるようにして天井の闇に目を凝らした。
(樹――これが……?)
彼にはっきりとわかるのは、それがこの世の理に反したもの、異質なものだということだけだった。
以前ここを訪れた時に、この「地」そのものが伝えた違なる存在。地の意思がそれを取り除かんと彼に強く願ったもの。そこにあると感じるだけで、ぞくぞくと体が震えるような何か。喩えるならそれは、じっと闇に潜みながら今にも這い寄らんとする無数の毒蛇のようである。
(樹なんてものじゃない。これは、もっと――)
「貴様はどこまで――」
セトの低い呻きがシエンの意識を引き戻す。
「一族の誇りを踏みにじろうというのか……!」
その叫びは、彼自身の奥から沸き上がった得体のしれない感覚を振り払うように吐き出された。
「これは『イシェド』――人の齢を定めるという聖なる大樹の、根であるのだぞ。これをこの世におろす事は、まことの地の長にのみ成せる業。その業を、先代のゲブ=トゥム――我が父が成し遂げたのだ!」
自身を奮い立たせるように、セトは声する。
しかしシエンはきっぱりと告げた。
「これは、この世にあっていいものじゃない」
セトははっと目を見開く。
(……この言葉、以前にも――)
聞いたはずだ、しかし一体どこで。また、誰に?
(わからない。だが、確かに聞いた)
意識の底から突き上げてきたものに戸惑う。まるで正体がつかめないそれに、しだいに苛立ちが募る。
セトは低く声した。
「この樹は、いわば我ら大地の血族の象徴……」
彼は思う。この不快な感情の根にあるものは何か。自身の足元を脆く感じさせる、それは。
「千年もの間、不実のもと奪い去られていた王権。今それが戻され、新たな生命神のもとにうち立てられる理《ことわり》……その象徴ともなる聖なる樹。それを貴様のような――」
この足場を揺るがすもの。それは……それこそは、目の前のこの男である。
「貴様のような外道が、切るなどと!!」
セトは猛り立ち、己の剣で地を穿った。地を砕き走る亀裂は、シエンの足元まで伸びる。
シエンはそれに動じなかった。その眼でじっとセトを捉えたまま、彼は言う。
「同じゲブ=トゥムの名を得たならば、お前も聴くことができるはずだ。地にあるもろもろの霊、その怖れ憂う声を。なぜ、それに応えようとしない」
「応える必要などない! 俺は地属の長――この聖なる樹を守護する者。どのようなものも、これを害することは許さん!!」
シエンは口を閉ざした。セトが急激に感情を高ぶらせる様子は、以前に西方の砂漠で対したときと似ている。その激しい憎悪が自身へと向けられる理由は分からない。ただセトが、この樹へただならぬ執着をもっていることはたしかである。
それは彼自身が言う、地属千年の悲願というようなものとは、どこか違うように感じた。もっと個人的なもの……亡き父に対するものかそれとも――?
その執心は命を張る覚悟の表れでもあった。彼の心がそれだけ強くこの樹の根と結びついているのだ。これを切ることは、彼を切ることと同じなのである。
しかし、そのために退くわけにはいかない。この大樹の根、あらざるべき存在を断つ。――己の剣、己の存在自体が、そのためにあるのだ。
たとえ犠牲を払うことになろうとも。守るものから、奪うのだと。
「そこを退け、セト」
手にした刃と同じ色をした眼が、ギラリと灯る。
「邪魔をするなら、容赦はしない――」
「粋がるなよ!」
セトが叫ぶ。
「その驕心、ズタズタに砕き散らしてくれる!!」
地下のその場が低く鳴動した。大地の力がそれぞれのもとに立ち上げられ、激しく衝突する。
ふたりの大地神ゲブ=トゥム。その最後のあらそいを、異界の闇が黙ってのぞき見ていた。
*
目の前の小柄な少年に、ハピはわずか眉を寄せた。
作品名:睡蓮の書 五、生命の章 作家名:文目ゆうき