短編集17(過去作品)
そういえば、「一応」という言葉をつけるのが私の癖だった。いつから付け出したのか忘れていたが、友達が覚えているということは小学校の頃から使っていたのは間違いないようだ。
――影が私を見ている――
そんな気になり出したのは、珍しく自分の影をずっと見ていたからかも知れない。自分の影に集中していると、私を見つめる何かに気がついた。実に皮肉なことである。
ゆっくりとあたりを見渡す。人通りの少ない閑静な住宅街の一つの通り、正面から誰も歩いてくる気配もなく、もちろん後ろからの気配もまったく感じない。頭を上げていればその気配は感じないのだ。
またしてもじっと自分の影を見つめている。すると正面から視線を感じるのだ。視線を感じてビクついている自分が、影を見れば分かってくる。影が私の今の心境を物語ってくれているのだ。
――確かに今の私は胸がドキドキしている――
誰かに見つめられてドキドキするのとほとんど変わらない。相手が見えていないと最初に恐怖心を抱くものなのだろうが、感じるのは見つめている人に対しての思い入れのようなものがあるからだ。
――知っている人なのだろうか?
相変わらず正面を向くと人の気配を感じない。
影を見つめると、影が私に語り掛けてくる気がするのは気のせいだろうか? 何を語りかけているのか分からない。しかし少しでも目を逸らすと、影が寂しがっているような感覚さえあった。
――怯えているのか?
私は影に語りかけた。
影は何も答えないが、様子を見る限り怯えているのではないようだ。
――見つめられているのは、果たして私なのだろうか?
ひょっとして見つめられているのは私の影なのかも知れない。例えば鏡を通して見つめている人を見ると、まるで私を見つめているように感じるが、実際は鏡の中の私を見ているのであって、直接目が合っているわけではない。それでも、何となくお互いに意識することもあるくらい、リアルに感じることもあるのだ。
――私の影も今、鏡のような効力があるのかも知れない――
と思わずにはいられない。誰かが私の影を見つめているのは間違いないが、実際の私にはそれが誰なのか分からない。影である私にも分かっていないのかも? とさえ思えるほどだ。
ふと私はシゲさんと初めて表で会った時のことを思い出した。
なぜだろう? 昨日のことのように鮮明に思い出した。昨日までそれほど気にもならなかったはずである。
あれは同じようにこのあたりの道を歩いていた時のことだった。あの日も自分の影を気にしながら歩いていた。元々足元を見ながら歩くのが癖になっていた。それは小学生の頃からである。
特に西日が当たる時はそうだった。
まだ当時はそれほど舗装された道が多かったわけではない。特にこのあたりのように今でこそ住宅街になっているが、昔はほとんど何もなかったあたりなど、舗装されているわけもなかった。風が吹くだけで黄色く照らされた砂塵が舞い上がり、却って綺麗に見えるくらいのところであった。足元には大小、無数の小石が何の計算もなく散りばめられている。それが西日にあたり、自分よりも長い黒い影を地面に這いつくばらせているのを見ると、まるで芸術作品のようなデザインを感じることができる。無意識にそこに目が行くのも仕方のないことかも知れない。
私はじっとそれを見つめながら歩いている。
まわりに車が走る気配もなく、見通しのいい道で絶えず前を見ている必要もない。当然車が来れば気付くに決まっているのだ。
あれは幻だったのだろうか? 私が住宅街の方から街の方へと歩を進めていた時のことだった。めったにこっちの方向から歩くこともなく、西日にまともに向かって歩くこと自体が久しぶりだったこともあり、視線はどうしても昔からの癖である足元に及ぶ。
前にシルエットが浮かんでいる。
手の平で庇を作るようにして、目をしかめながらシルエットを見つめた。さぞかし頬の筋肉は硬直し、微妙に震えていたことだろう。それだけシルエットへの印象も深かったのかも知れない。
シルエットが次第に大きくなる。少しだけ上下に揺れる頭のてっぺんは確認できたが、体格はよく分からなかった。少し太り気味には見えるがシルエットになっているため、ハッキリとは分からない。しかし微妙に懐かしさを感じるのは、どこかで見た覚えがあるからだろう。
時々それが後ろ姿にも思えてしまう。いや、どちらかというと後姿の方が見覚えとしてはハッキリしているような気がして仕方がないのだ。
――シゲさんは本当に実在するのだろうか?
そう感じたとしても不思議ではない。シルエットとして浮かび上がったシゲさんは、見れば見るほど鮮明に光の中に浮かび上がっている。だが、光の中で大きくなればなるほどまわりがぼやけてきて、実在に関してさらなる疑惑が湧きあがってくるのである。
喫茶店では、常連同士で、他の常連の噂話をすることがある。それは皆気心が知れていることだから許されることで、後になって本人には、
「この間、君のことでこんな話が出たよ」
「え? そうなんですか? いやぁ、ごもっとも」
といった差し障りのない、いかにも常連同士という会話になる。
しかしシゲさんに関してはそんな会話をした記憶がない。それどころか、シゲさんが他の人と会話しているところを思い出すことができない。想像しようとしても、できないといった方が正解かも知れない。
他の人との会話は日常会話のようなものが多く、趣味や仕事や相手の家庭の話といったものが多い。しかし、シゲさんに関してはそのあたりはまったく謎であることを今さらながらに思い出した。趣味や仕事も当然のことながら、家庭のことすら一切知らなかった。シゲさんと知り合ってすぐに話し始めたわりには、あまりにも何も知らなかったのではないだろうか?
シゲさんの顔は目を瞑れば浮かんでくる。あまり喜怒哀楽を表情に出す方ではなく、実際にも喜怒哀楽があるのかすら疑わしい。だが、私を見つめるその目の鋭さには懐かしさを感じる。まるで毎日見ているような感覚もあり、違和感はどこにもないのだ。
表で見かけるシゲさんは、後にも先にもその日が最後だった。
喫茶店で見かけるシゲさんに対しても、その日を境に表で見たシルエットのイメージがかぶってしまい、私の中で作り上げてきたシゲさんのイメージが崩れ始めていたような気がする。いや、私の中にあったはずのシゲさんのイメージ自体の存在に疑問を持ち始めていたのかも知れない。
――シゲさんは本当に実在するのだろうか?
再度この思いが次第に強くなっていった。
表でシゲさんを見たあの日以来、しばらくシゲさんを喫茶店でも見かけることはなかった。きっと表で見かけたことが、喫茶店にシゲさんが現れないことと関係があるのではと思ったのは自然だったのだろう。
――影に見つめられている自分――
そう感じた時、影の存在が、まるでシゲさんのように思えてきた。私にとってシゲさんの存在とは、いつも感じていた存在のような気がするからだ。
作品名:短編集17(過去作品) 作家名:森本晃次