短編集17(過去作品)
見つめる影
見つめる影
その影を感じるようになったのは、最初はいつだっただろう?
毎日営業から会社に帰る時間はほぼ一定している。どちらかというとなるべく楽をしたいと思っている私は、それほど過密な営業活動をするわけでもなく、楽勝で終わった日でも、途中の喫茶店で時間調整をしたりと、適当に時間を使っていた。それほど給料のいい会社でもなく、最近珍しくもないだろうが、残業しても手当てはつかない。それを考えるとあくせく働くのがバカバカしい。
しかしそれでも営業成績はトップクラスに近く、ひょっとして営業に向いているのでは? と考えることもあった。別に騙しているわけでも誇大宣伝しているわけでもない。なぜなのか自分でも分からない。
――だけど、そんなものでは? 見る人が見れば分かるのかも知れない。きっと自信を持っていいんだ――
そんな風に考えることにしている。
馴染みの喫茶店もしっかりキープしている。コーヒー専門店のような店で、近くを通っただけで、コーヒーの香ばしい香りが漂ってくる。我ながらいい店を見つけたものだと感心している。
喫茶店は会社から近いところにあるのだが、少し奥まったところにあり、しかも住宅地へと向かう道なので、会社の連中の行動範囲とはまったく違っている。そのせいか別に見つかることもなく、他の会社の営業社員もよく知っているらしく、「時間調整ご用達」のようになっているのだ。
木造の店内にはコーヒーの香りと共に湿気が充満し、心地よい眠りを誘っている。中には昼下がりの睡魔に勝てず、寝ている人もいるくらいで、テーブル席のソファーはそれだけ座り心地がいいのだ。
深く腰が落ち込んでいき、まるで包み込むようなクッションには私も何度となく睡魔に襲われたものだ。イビキを掻きながら寝ていたこともあるとマスターに後から聞いたものだった。
マスターとはなぜか気が合った。初めてきた時に趣味の釣りの話をしていて、ちょうど私も釣りをするので意気投合したことから、会話が始まったのだ。
「釣りって意外と短気なやつがやるものだよ」
と言ったマスターの言葉に私が反応したのだ。
「ああ、そうかも知れませんね。私も短気ですから」
カウンター席に座ってコーヒーを注文してすぐだった。言ったあとに
――しまった――
と思い、マスターと常連とおぼしき人の顔を見ると、最初さすがにいぶかしそうな顔色を浮かべていたが、すぐに、
「そうですね。あなたも釣りおやりになるんですか?」
というマスターの一言とともに、その場の雰囲気が明るくなり、常連の人も和やかな顔になった。
「ええ、かじる程度ですがね。でも今のお二人の意見には私も同感ですよ。常々思ってたんですよ。短気な私によく釣りのようなものが似合うなって」
「そうですか、そうおっしゃる方多いみたいですね。私も実は短気なんですよ」
そう言ってニコニコと笑っているマスターだったが、そんなマスターの顔から「短気」というイメージは浮かばない。やはり短気という性格はうちに秘めたものなのかも知れない。
「短気というとどんな感じですか?」
「そうですね。客商売などしているとなかなか顔に出せないじゃないですか。でも時々顔色が変わることもあるらしいんですよ」
横で聞いていた常連の一人が、思うところがあるのか真剣な顔で頷いている。それとも自分に照らし合わせて聞いていたのかも知れない。
「裏でグラスとか、何枚も割ってるんじゃないの?」
常連が茶化す。
「ははは、そうだね。イライラした時はあるかもね。よし、今度イライラした時は安いやつを割ろう」
「はい、その時は注文してください」
後で聞いた話であるが、常連の男は雑貨問屋の営業マンだった。半分は冗談だろうが、半分は真剣だったのかも知れない。男はみんなから「サブちゃん」と呼ばれていた。愛称に似合わず腰の低そうなサラリーマンなので、きっと本名から来ているのだろう。
三人で話していて和やかな空気が漂っている気がした。初めての客で初めての会話参加なのに、まるでずっと話をしていたような錯覚に陥るほど、打ち解けていた。
――しかし彼らのどこが短気なんだろう?
じっと見ていて感じたことだが、短気というのは傍から見ていて簡単に分かるものではないらしい。
――ということはこの私も?
当然そういうことになる。普段自分が短気だと意識することはない。もちろん心穏やかな時に感じる必要もないのだが、一旦きれてしまうと、後は泥沼、自分を抑えることができなくなってしまう。自分に意識はあるのだ。きれたから、頭に血が上っているからといって、まったく周りが見えないわけではなく、意外と冷静だったりする。しかし、その感情を抑える術を知らないだけなのだ。
短気だからすぐに頭に血が上るということもないようだ。
それは私だけなのかも知れない。「短気」ということにいくつかのパターンを持った人がいて、その中でも私だけが特殊なのでは、と思ったこともあるくらいだ。ひょっとして本当に短気な人は、元々自分が短気だという意識などないのかも知れない。
そういう意味で自分が短気だと思っている人ほど自分を冷静に分析していて、意外と気長に待てる人だったりするのだろう。そう考えれば釣りに向く人が短気だという人に多いのも頷ける。
「ははは、じゃ、皆さん短気ではないのかも知れませんね」
高らかにマスターは笑う。このおおらかさが短気だという中でも店一軒経営していけるだけの人間としての「器」の大きさなのだろう。細かいことは別にして、しっかりとしたところの一本通った人間であることは、ハッキリと見て取れた。
何度かこの店に通ううちにすっかり常連となってしまった。いつも同じくらいの時間に訪れることもあってか、よく会う常連のメンバーは決まっている。夕方が多いこともあって、私のようなセールスマンや、学生、そして昼下がりの主婦と、時間的には豊富な常連陣だ。本当であれば客の少ない時間帯なのかも知れないが、主婦や学生で、本を読んだりして「贅沢な時間」を楽しんでいる人も多く見られる。
それでも私の行く頃になると結構気心知れた常連が集まってくるので、本を読んだりしていた「贅沢な時間」を使っていた人たちも自然とマスターを中心としたカウンター席に集まってくる。
その日もそうだった。
いつものように西日が店の入り口から斜めに中に入っていく頃、乾いた鐘の音を店内に響かせ私が入っていくと、見覚えのある常連たちが一斉に、カウンター席からこちらに振り返った。
「やあ」
振り返った皆は気軽に声を掛けてくれる。来てよかったと最初に感じる瞬間である。皆の顔にはそれぞれ親しさを感じ、心の余裕を見え隠れさせている。
――私も皆に同じように心の余裕を与えるような顔ができているのだろうか?
時々感じることがある。
しかしそれも一瞬で、実際に話の輪に入るとすぐに打ち解けている自分がいるのだ。
作品名:短編集17(過去作品) 作家名:森本晃次