記憶のない海
[4]
「奥さん」
悠揚とした物腰の、医師の声
夕焼け空の下からベッドの上へと私を引き戻す
ああ、寝てた?
それとも微睡んでいたのか、その違いは分からない
目線を動かすのにも一苦労する
気をゆるめると目の玉が引っ繰り返りそうになる
それでも医師に促され
彼の背後から覗く人影に目を向ける
溜め涙で微笑む、この人は
「だ、れ」
漸く発した、声
ひどく掠れた私の、声
「こ、の人は、だ、れ」
涼気な医師の目に当惑の色が浮かぶ
そうして、医師が振り仰ぐ「この人」にも困惑の表情が広がる
けれど、あなたにそんな顔をされても困る
なぜだろう、嫌悪感が半端ない
「し、らない」
「だ、れ」
ぎくぎくする首を振り必死に萎えた腕を振り回すも
医師は難無くその腕を取り、制す
「奥さん、落ち着いて」
まるで水泡
医師の悠揚迫らず態度でなにかしら指示する声も
慌ただしく鳴る看護師たちの足音も、私の名前をぼんやりと呼ぶ誰かの声も
いくつもの水泡になって順繰りに枕辺で弾ける
「海の匂いがする」
差し仰ぐ空は海底のように澄み物憂げな陽光が降りそそぐ秋日和
大気を抱くようにして深呼吸する、先輩
横目に私は砂浜にしゃがみ込む
手のひらで乾いた砂を掬う
白すぎず黒すぎず明るい灰みの黄、砂色
さらさらと指の隙間から零れていく
結局初デートは海に決まった
理由は分からない
ただ私は海の生まれで先輩は山の生まれという事
ただそれだけの事
なんか笑いが込み上げてくるんですけど
ツンデレ希望も真偽は不明だしね
「君の、匂いだ」
突然なにを言い出すのやら
「なんですか、それ?」
「もしかして魚臭いですか?、私」
口調は冗談半分
けれども抗議めいた眼差しで先輩を見上げる
やわらかな陽射しの下先輩は答えた
「俺の、好きな匂いだ」
面映ゆい台詞を事もなげに言うんですね
でもね、全然嬉しくないし全然意味分かんないですよ
心臓はばくばくしてるけど
そうして先輩は砂浜に足跡を残していく
「それって、人魚ですか?」
「それとも半魚人ですか?」
立ち止まるその背中を見つめる
そして肩を竦めて笑えば、いつもの口癖
「馬鹿たれ」
私が馬鹿たれなら先輩は阿保たれです