記憶のない海
[5]
「今回…」
「脳に、損傷…」
未だ、私の世界は白く行ったり来たり
浅く浮いているのか
深く沈んでいるのか分からないまま、微睡む
「…が考えられます」
医師と話しをしているのは、誰?
私の名前を呼びあの人の振りをするのは、誰?
「家族が別人にすり替わっていると思い込むのです」
なにそれ
なんて罰ゲーム?
あの人に会いたい
お願い、あの人に会いたい
ああ、瞼が重い
ああ、身体が重い
少しだけねむりたい
少しだけでもねむりたい
そうして必ずあの人を探しに行く
だから、いい?
少しだけねむっても、いい?
「治る、のですか?」
瞼を閉じる一瞬、その声は鮮明に響む
私の鼓膜に
私の鼓動に
「あ、あな、た」
駄目、掠れる
咽喉に絡みつく声が苛立たしい
「あ、なた」
「あな、た、でしょ」
返事はない
一度閉じてしまった瞼はどうにもこうにも開かない
「奥さん、そのまま」
制する医師の声に素直に従う
今の私には抵抗する気力も体力もない
ああ、意識が途切れそう
「ご主人」
あの人を促す医師の声にどこか固さを感じるのは、気のせい
近づくあの人の足取りが鈍いと感じるのも、気のせい
暫くして手の平が私の瞼を撫でるようにして覆う
微かに震える指先は仄かに冷たい
こんな状態の私には
触れる手の平があなただと確認する術がない
なぜか一言も喋ってくれないし
だから、あなただと仮定して言いたい事を言わせてもらう
取り合えず
「少し、だけ」
「ねむ、り、たいの、いい?」
あとね、折角のお出かけだったのに
「ごめん、な、さい」
「ケガ、なんかしちゃ、って」
以上
こそばゆい程、耳元であの人の声がする
「馬鹿たれ」といつもの口癖を聞いて自分もお決まりの悪態を吐く
「私が馬鹿たれなら先輩は阿保たれです」
とまあ、寝落ち寸前で最後まで言えたか疑問
うつらうつらする中、医師の声だけが病室内に響く
「ご主人」
「先程も説明しましたが、この症状は視覚に問題があります」
ねえ、次の休みには山に行こう
忙しいあなたの事だからいつになるか分からないけど
あなたの育った町の、あの山がいい
「声だけなら、ご主人を認識出来る」
「声だけなら、ご主人を愛せるのかも知れない」
ねえ、そうしよう
ねえ、約束
ねえ