カクテルの紡ぐ恋歌(うた)Ⅹ
目の前にいる彼は、いずれ、鈴置美紗の存在を嘘の中に沈め、居るべき場所へと帰っていく。その時には、苦しげに息を乱す華奢な身体を慈しみながら貫いたことさえ、あたかも一職員の保全事案をもみ消すかのごとく、いとも簡単に「なかったこと」にしてしまうのだろう。
そうと分かっていて好きになった。すべてを承知の上で、身を委ねた。だから、何も期待してはいない、してはけないと、思っていた。
「……あの夜は日垣さんと一緒にいたいなんて思っちゃ駄目だって、傍にいてくださいって言っちゃ駄目だって、遠い所に帰らないでって言ったらいけないって、ずっと……」
泣きじゃくる美紗の頭に、日垣は無言のまま、ゆっくりと右手を伸ばした。大きな手が、震える髪を撫で、涙がつたう頬に触れた。悲しいほど温かいその感触が、千々に乱れた心を包み込んだ。
「日垣さん……」
濡れた瞳を見下ろす彼の目は、深い憂いの色に揺れていた。月の光に照らされているせいなのか、切れ長の目は微かに潤んでいるようにも見えた。
「すみません、変なことを……」
「君が謝る必要はない。私が」
「日垣さんを、困らせたくないのに」
「分かっている」
「でも」
美紗は子供のように頭を振った。
「……やっぱり、迷惑ですよね。迷惑はかけないって、言ったのに、私は、いるだけで、日垣さんの」
頬を撫でていた右手が首元を強く掴むのを感じた瞬間、美紗の言葉は唇に遮られた。びくりと揺れる身体を、大きな影が覆い被さるように閉じ込める。戸惑う小さな唇の間を、温かく柔らかい感触のものが、ゆっくりと撫でていく。
「……っ」
耐え切れず、美紗は微かな声を漏らした。わずかに開いた唇を割って入ってきた舌が、美紗のそれを強引に絡めとる。互いの体温を感じながら触れ合う場所が熱を帯びてゆく。その熱がじわりと身体中に広がると、それまで美紗の胸の中を圧迫していた何かはとろりと融け落ち、別の衝動へと変質していった。
途切れる息遣いと苦しい鼓動。
それ以外の、すべての時間が、止まる。
作品名:カクテルの紡ぐ恋歌(うた)Ⅹ 作家名:弦巻 耀