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短編集15(過去作品)

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花言葉



               花言葉

 水曜日が来るのが怖い。いつ頃から怖くなったのかハッキリと覚えていないが、仕事が終わるのがこれほど怖いと思ったことは、かつてなかったことだ。
 特に最近残業続きだったこともあって、水曜日の「ノー残業デー」は本当であればありがたいはずである。最初私もそれが嬉しく、帰りに後輩と一杯、なんてことも何度もあった。
 元々アルコールが強い方ではないが、一杯引っ掛ける程度なら却って気分転換になっていい。居酒屋の雰囲気はとても気に入っている。
 私こと琢磨信介は、数年フリーターだったが、中小企業に勤める普通のサラリーマンである。三年前に三十五歳で結婚し、今は妻と二人でマンション暮らしをしている。妻は家にいて専業主婦なので、お互いに生計を立てているが、私に残業が多いこともあってか、家のことはすっかり妻に任せている。
「琢磨先輩のところはいつまで経っても新婚夫婦みたいですね」
 そう言われて嫌な気はしない。却って、
「ありがとう。お互いを認め合ってるから、いつまでも新鮮でいられるんだよ」
 と答えていた。
 そういえば喧嘩もあまりしたことがない。お互いに嫌なことは分かっているので、なるべく嫌がることは避けているのだろう。それが無意識にできるうちは、あまり余計なことを考えない方がいいと考えている。
 呑みに行って、まだ独身の連中にそんな話をするが、彼らも嫌がらずに聞いてくれる。それが私には嬉しかった。呑みに行く連中で妻帯者は私だけなのだが、こういう話題ができることで仲間はずれにされる心配もなさそうだ。
 その日は偶然、皆に用事があった日だった。いつも誘いに来る人は最初から決まっていたのだが、途中から暗黙の了解のようになっていて、来れない人だけがなぜか私に報告に来るようになった。もちろん無理強いをするつもりもなく、笑顔での会話に終始していたので、話しやすかったに違いない。
 しかしその日はなぜか予感めいたものがあった。
――ひょっとして、今日は人が集まらないのでは?
 どうやら予感は的中したようだ。次から次へ断りをいう人が出て、その日は結局お流れということになった。
「すみませんね」
 何人のその言葉を聞いたことか。
――偶然が重なっただけだろう――
 と最初は気にも留めていなかった。
 家にこんなに早く帰るなど、最近ではなかったことだ。何が信じられないといって、表が明るいことだった。
――こんなに早い時間に帰ったら、女房はどんな顔をするだろう?
 もちろん、早い時間に帰れることが、嫌なはずはない。実際にいつも遅く帰るために、女房の顔は寝顔しか見たことがなかった。帰ってからの暖かい手料理、こんなありがたいものは最近には味わったことがなかった。
 それに、
――夜の方も――
 気持ちの中では、いつも寂しい思いをさせて申し訳ないという思いがあったり、お互いに疎遠になることへの危機感もあったりした。しかし、仕事をしている私はまだいいとしても、一人で寂しく家にいる女房がどれだけ寂しい思いをしているかなど、私の想像できるところではなかった。
 元々、私の転勤でこの土地にやってきたのであって、女房にとっては知り合いもいない土地でのマンション暮らし、どちらかというと社交的な性格なので、それほどでもないと最初はたかをくくっていたが、最近は不安な気がしている。何と言っても相談できるはずの私と日頃あまり顔を合わさないからだ。
――今日はたっぷりと愚痴も聞いてやるか――
 唯一の趣味はお花くらいか。
 女房の顔が頭に浮かんできた。いつもニコニコと微笑んでいる女房である。屈託のない笑顔に惚れ込んで結婚したのだ。あの時の笑顔が今でも忘れられない。
 問題がないわけではなかったが、要はお互いの気持ちだった。
 まだ入社し立てで、結婚などもっての他、という意見も身内にあったが、それでも私の熱意と彼女の人間性が心を打ったのか、最後は気持ちよく認めてくれた。二人の決意も心を打ったのだろう。
 逆に女房の方の家庭の方がすんなりと認めてくれた。
「君の熱意が本物だと思うから認めよう」
 と義父は言ってくれたのである。
 しかし私の両親は昔かたぎというか、固いところがあり、
「相手のことをまず先に考えるからさ」
 というのが父の考え方であった。それはそれで当然のことかも知れない。まだ入社し立てで、土台を固めなければならない時期の結婚となれば、さすがに親も気にするというものだ。しかし当事者本人は気持ちが盛り上がっていることもあり、なかなか納得いくものではない。
「俺に任せておけ」
 と胸を叩いて彼女を安心させ、私は説得を重ねた。
「私も協力するわ」
 そういってくれた彼女を連れて、初めて私の親に彼女を引き合わせた。
「お願いします、私は彼についていきたいのです」
 この一言が父の心を打った。私一人ではどうにもならなかったことを彼女の熱意が打ったのである。熱意と彼女の朗らかで明るい性格、母親はすっかり気に入ってくれていた。
 今でも母から、毎週何かが届く。私にというよりも女房にであって、それだけでも女房の気持ちをいくらか和ませてくれているに違いない。
――ケーキでも買っていくか――
 甘いものが好きで、交際中にデートした喫茶店では、よくケーキを食べていた。ちょうど駅前にできた洋菓子屋さんのケーキが美味しいと、近所で噂になっていることを、以前女房から聞かされていたことを思い出した。
――きっと驚くだろうな――
 驚きながら喜んでくれる顔を思い浮かべて、思わず顔が綻んでいるのが自分でも分かっている。少し照れ臭い気もした。
 しかし今まで女房のことを考えていたわりには、何もしてあげられなかった自分が情けなくなった。
 元々気弱な性格である私は、思い込む方でもあり、
――悪いことをしたな――
 と思えば、自分が卑屈なまでに落ち込んでしまうことすらあった。しかも表に出やすい性格であるため、相手から気を遣われるようなことすらあり、さらに情けなくなったりしていた。
 しかし、今回は、
――俺は仕事をしているんだ――
 という気持ちが強いこともあって、そこまではない。水曜日の呑み会にしても、コミュニケーションの一環で、仕事の延長としてしか考えていなかった。
 駅を降りてからケーキ屋までは少し距離があるのだが、そんなことを考えながら歩いていると、気がつけばいつの間にか着いていた。
 自動ドアを開けるとスーっと中から漏れてくるクーラーの涼しさが心地よかった。西日や埃でもやがかかったように見えていた表とは打って変わって、中の明るさがひときわ目立つのは、クーラーによって目が覚めた気分にさせられたからであろう。
 しかも店内はケーキ屋らしく明るかった。
「いらっしゃいませ」
 静かで清楚な雰囲気の店内を引き立てるような女の子の声が響いた。いかにも「アルプスの少女」を思わせるフリルのついたエプロンの鮮やかさが目立っている。
 腰を曲げるようにしてショーウインドウを覗き込んでいる私を見て、ニコニコ微笑んでいる彼女を意識しながら、
「うーん」
 と唸るように呟いた私は、なかなか決めかねていた。
作品名:短編集15(過去作品) 作家名:森本晃次