短編集15(過去作品)
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男と女が騙しあう。これは太古の昔からあったことだ。女にとって男は騙しやすいものらしい。しかし、女の側から言わせると、
「騙す男がいるからいけないのよ」
ということになる。
女は男のメンタルな部分、つまり誠意に、そして男は女のフィジカルな部分、つまり色香に騙されてしまうもののようだ。
だが、そう一概に決め付けることができるであろうか?
女も男の身体を忘れられずに騙されることもあるだろうし、男も女の誠意に絆され、騙されてしまうこともあるだろう。そこに打算というものがある限り、これからも騙し騙される男女が限りなく増えてしまうことだけは、間違いないだろう。
金曜日になればなぜかイライラしてくる。本来であれば「ハナキン」ということもあって、ウキウキした気分になるのであるが、最近はそうでもない。
以前のように給料が仕事に見合っただけもらえれば、呑んで帰ろうかとも言えるのが、この不景気のご時世、私だけでなく皆も財布の紐は固かった。
それまでは週末だけといわず、それぞれが顔を見合わせれば居酒屋にでも寄って帰ろうという気分にもなるのだろうが、どうしても先のことを考えると不安でそんな簡単に飲んでもいられない。最近では先のことはおろか、当座の生活費の捻出にも困っている。家賃の値上げもさることながら、意外と高くつくのが携帯電話代である。今まではなくとも困らなかったが、実際に持ってしまうとその便宜性から、どうしても費用がかさむ方へと走ってしまう。メールだけなら安いとたかをくくっていると、気がつけば万単位の請求代になってしまっている。
「携帯代もバカにならないや」
何度呟いたことか、文明に力に手を出してしまったことは、大袈裟にいえば「パンドラの箱」を開けたが同然である。
さらに不景気なご時世、会社も人員削減の一環として正社員を減らし、パートを増やすというやり方を何年も前からやっているので、数少ない正社員の方にしわ寄せが行ってしまい、仕事量に似合う報酬が程遠いものとなってきている。責任と気苦労ばかりが増え、よく見るとまだ三十代の上司が白髪交じりの頭になってしまっている。
さすがにそんな精神状態で、本来なら酒でも呑んでストレスを発散させるのが、少し前なら常套手段だったのだが、少ない給料を見た今となっては、その気力すら失せてしまっている。
「たまには飲みに行こうや」
声を掛けるやつもたまにいる。しかし、それに答えるものはほとんどおらず、言ってしまったものは、
「言わなきゃよかった」
と、後悔の念に苛まれてしまうのである。
もうその人は二度とそのことを口にしない。次第に口にできる人も減ってきて、ついには言葉に出すことすらタブーになってしまう。心で思っている人もいるかも知れないが、口に出さなければ誰にも分からない。それこそタブーなのだ。
――イライラとはどんな時に感じるものだろう?
たまに考えることがある。
さすがに、毎日のように飲んで帰っていたのが少しずつその回数が減ってきた時は、部屋に帰ることが新鮮だった。少しだけ明るい部屋に帰ってくるようで、朝出て行った時のぬくもりが、まだ残っているのではないかと思えるほどである。まるで部屋の中から誰か声を掛けてくれる人がいるような気がするくらいに思えるのだから、それまでがよほど冷たく暗い部屋に帰っていたのだろう。
深夜にしか帰ってこないということもあって、それほど部屋の中はゴミゴミしていない。ゴミが溜まるわけでもなく、モノも増えていない。増えるとすれば文庫本くらいだろうか、本棚もそれなりに大きいのを置いているので、本が並ぶ隙間はまだかなり空いている。
学生時代に旅行が好きだった影響で、お土産に買ってきたものがだいぶ置いてある。観光名所をかたどった置物、ガラス細工、テナント、盾など、部屋を見れば一目で旅行好きと分かるであろう。
学生時代の旅行では大体の地域を網羅していた。九州、沖縄、四国、北海道。本州も主要な都市には必ず行っていて、そこを拠点に観光地を廻ったものだった。一人で出かけて現地で友達になった人と、次の先を決めるなどという当てのない旅も好きだった。学生だからできたことなのだろう。就職してそろそろ五年、最初の頃は旅行に行きたいとも真剣に考えたものだが、最近はそこまで考えない。どうしても、現実逃避しきれない自分がいるのだ。
最近、金曜日になると、部屋に並んでいる旅行からの「戦利品」をよく眺めている。無意識に見ていることが多く、気がつけば一時間もたっていたりすることもあった。
それがイライラの原因ではないかとも感じたが、それだけではないようだ。
――何か部屋が暗くなったような気がする――
最初に呑まずに帰ってきた時に感じた部屋の明るさ、それがまったく感じられないのだ。確かに明るい部屋に慣れて来たのもあるかも知れない。実際に最近はあまり明るさを感じなくなったからだ。だが、明らかに金曜日だけは違っている。深夜の静けさを思わせるのだ。
――耳鳴りがする――
金曜日にはあまりにも静かな部屋で耳鳴りがするのを感じるのだ。空気が薄く、まるで高山病にかかったような、そんな感じである。
仕事から帰ってくる時間が金曜日だけ特別というわけではない。しいて言えば金曜日の仕事が終わると、土曜日、日曜日と休みである。月曜日になると、金曜日が来るのが待ち遠しい。いや、正確には日曜日の夕方からである。日が暮れる頃の番組を見れば気持ちが月曜日に向いてしまい、仕事や学校に行きたくないと思う気持ちで憂鬱になるといった現象が社会問題になったりしているが、まさしくそんな気持ちである。
金曜日は複雑な心境である。あれだけ待ち遠しかった週末であるくせに、実際にその時がやってくると、
――何もすることがない――
と思い知らされるだけである。せめて平日に録画しておいたビデオでも見ようかと思うくらいで、一人暮らしの寂しさは週末になれば思い知らされる。確かにのんびりはできるだろう。しかし、そこには複雑な思いがあるのだ。
――こんな時に友達でもいれば違うんだろうな――
学生の頃の友達とは、卒業してから半年くらいは連絡を取り合い、実際に会って、グチや、現在の苦労話に花を咲かせていた。しかし学生の頃と違い自分の話を必死にしている自分がいる。話したいことがずっと溜まっていて、それを爆発させることは、ただのグチにしかならないのだ。
しかも、皆それぞれ自分の仕事を与えられるようになる。そのうちに休みも合わなくなり、実際に休みを合わせることすら難しくなってくるのだ。一回疎遠になってしまえばなかなか声を掛けることもできず、そのまま音信普通になってしまった。
それから休日にあまり人を求めなくなった。
しかし気持ちは複雑だった。彼女を求めている自分がいるのに気付いたのはいつ頃だっただろう。気がつかなかった頃にあったモヤモヤのその原因が、分かればきっと楽になれると思っていたのだが、余計にモヤモヤしてきたのである。
彼女を求めているということは寂しい心が求めているのはもちろんのこと、身体も求めていることが分かったからだ。
作品名:短編集15(過去作品) 作家名:森本晃次