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天国に咲く花

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引き寄せられる人たち(一)


 朝からしとしとと雨が降り続いていた。
 小野田冴子はカーテン越しに雨空を見上げ、まるで自分の思いをあの空が代弁しているのではないかと思った。雨粒を受けて生き生きと咲いている庭の草花でさえも、今の冴子の目には物悲しく映った。
 今日は夫、文雄の教授会の日だった。文雄はR大学の薬学部の准教授だが、教授会の日は決まって機嫌が悪い。もともと研究以外は苦手な上に、教授と助手の間に挟まれる教授会の居心地の悪い時間はいかんともし難かった。
 夕方、雨の音の中でチャイムが鳴った。冴子が玄関のドアを開けると、両肩を雨に濡らした文雄がいかにも不機嫌そうに入ってきた。
「お帰りなさい」
 こういう時は余計な言葉は禁物だ。冴子は夫の逆鱗に触れぬよう細心の注意を払った。同居している文雄の母、康江も慌てて奥から出てきて、冴子が脱がした濡れた背広を受け取ったり、風呂の世話を焼いたりした。
 二人の緊張感の伴った気遣いで、何とかことなく夕食の食卓にまでこぎつけたが、食卓に出てきた煮物の味付けが薄いとか、肉が固いとか些細な文句が始まると、冴子はもう文雄の怒りの導火線に火がつくのは、もはや時間の問題だと悟った。
 
 二時間後頬を腫らし、床に散らばった惣菜を拾い集める冴子に、康江は涙を流しながら詫び続けた。
「冴子さん、本当にごめんなさい。でも、あの子は本当はやさしい子なの。あなたに甘えているだけなのよ。お願いだから辛抱してね」
(何度聞いた言葉だろう)
 そして、これから寝室で文雄が自分に対して行う振る舞いももうわかっていた。
 冴子が片付け終えて寝室に入ると、待ち構えていたように文雄は土下座して謝った。そして、冴子の腫れた頬をやさしく撫で、もう二度としないと誓った。冴子はただ無表情で空を見つめていた。
 
 文雄が初めて冴子に手を挙げたのは、結婚して半年くらい経った頃だった。ちょうど准教授に昇格した時だったので、過度のストレスのせいであろうとそれほど深刻には思わなかった。しかし、二度三度と続いて、もはや一過性のものではないと確信した冴子は、思い切って姑の康江に相談した。すると、康江は申し訳なさそうにうつむきながら打ち明けた。
「冴子さん、今まで黙っていたけれど、実は、文雄の父親も気に入らないことがあると私たちに手を挙げたの。だから文雄もそれはもう父親を怖がって…… あの子もかわいそうな子なの、お願いだからわかってちょうだい」
 
 それが一年前の事だった。それ以来、姑と二人、文雄の機嫌を損ねないよう気を配って暮らしてきた。普段は姑の言う通りやさしくていい夫だった。酒も飲まないし、タバコも吸わない、ギャンブルもしない。ただ研究に明け暮れるまじめな夫だった。そんな生真面目さが災いしてストレスのはけ口を身近な家族に暴力という形で向けてしまうのだろうか。
 そんなある日、冴子はもしかしたら自分は妊娠しているのではないかと気がついた。全身を恐怖が走った。もし文雄の子どもを産んだら、その子も暴力の対象となり、文雄の二の舞になるかもしれない。想像するだけで恐ろしい。
 今まで子どものことなど全く頭になかった。辛抱してこのまま結婚生活を続ける意味があるのだろうかと考え始めたところだった。でも、もし妊娠していたら、話は大きく変わっていく。鉛のような心を引きずり、冴子は産婦人科へと向かった。
 帰り道、冴子はふと目についた喫茶店へ入った。平日の昼下がりとあって中はガラガラだった。窓際の席に座って運ばれてきたコーヒーを一口啜った。何とおいしいのだろう。この瞬間、冴子は決めた。以前、家庭内暴力の相談した時、友人から聞いた山奥の老婆を訪ねてみようと。
 翌日、夫と姑には実家で親戚の集まりがあると言って家を出た。
 昨日、妊娠していないとわかった時は心の底から安堵した。と同時に、このままではまたいつあの恐怖を味わう日が来るかわからない。絶対に文雄の子を身ごもってはならない。つまりは離婚するしかないのだ。
 でもあの親子がすんなりと納得してくれるとは到底思えない。文雄の激昂ぶりは容易に想像がつく。あるいは涙ながらに思い留まるよう懇願するか、自殺騒ぎを起こすかもしれない。事は慎重に運ばなければならなかった。

作品名:天国に咲く花 作家名:鏡湖