天国に咲く花
山奥の老婆(六)
その夜、老婆は夕食の後、囲炉裏を挟んで向かい合う親子にポツリポツリと昔話を語り始めた。
老婆が生まれ育ったのは海辺の小さな村だった。そこで漁師をしている父親とそれを手伝う母親と三人で暮らしていた。その村にはとても小さな漁港があったが、岸壁に建つ白い灯台が村人たちの自慢であり村の象徴でもあった。
ある日、漁に出た船が突然の嵐に襲われた。数艘の船が戻ってこなかった。その中に老婆の父親の船もあった。
母は老婆に家から出ないように言いつけると、父を捜しに風雨の中、外へ飛び出して行った。
長い一夜が明け、朝になっても父はおろか母も戻って来なかった。やがて嵐は収まったが、まだ海はうねり強い風が吹きつける中、外へ出た老婆は知り合いの家へと走った。だが、しばらくその家にいるように言われただけで、父や母の事は誰も教えてくれなかった。
次の日から、老婆は灯台近くの浜辺で、青く光る海を見つめながら一日中両親の帰りを待ち続けた。そして灯台に灯が灯ると、砂を蹴りながら世話になっている近所の家へと帰って行った。
そんなことが半月も続いた頃、あの時遭難した六人と、浜辺で波に飲まれた老婆の母親の供養が行われ、老婆は遠い親戚が迎えに来ることとなった。
ここを離れる最後の晩、老婆は夕食後、誰にも見つからないようにそっとその家を抜け出し、灯台の灯りを目指した。
真っ暗な浜辺は昼間とは違い、波の音までが恐ろしく聞こえた。勇気を出して老婆は立ち止まると海に向かい、波の音に負けないくらい精一杯の声で両親を呼んだ。三度ほど呼んだ時、老婆の目の前になんと、信じられない光景が広がった。
灯台の光がスポットライトのように海を照らすと、その部分の水がサアーッと左右に引き一本の道が現れた。そしてその先に、今まで見たことのないような綺麗な花畑が広がっているではないか! そして、なんとそこには笑顔で立っている母の姿が!
老婆は思わず駆け出して母に近づこうとした。だが、近づくたびに少しずつ母は遠ざかっていく。ようやくあと少しで母に抱きつける! と思った瞬間だった。突然スポットライトは消え、辺りは元の暗闇に包まれ、引いていた水が一気に押し寄せてきた。老婆は夢中で近くに生えていた花を握るとそのまま波に飲まれてしまった。
翌朝浜に打ち上げられた老婆は、奇跡的にかすり傷を負っただけの姿で発見された。そして、その手には見たことのない美しい花が握られていた。
それから、その日のうちに老婆は親戚に連れられ、この土地にやってきた。手にしていた花は不思議なことに枯れることもなく老婆によってこの地に植えられた。
長い間黙って話に聞き入っていた桃が突然、
「あっ!」と叫んだ。
ニコリと笑って老婆が答えた。
「そうじゃ、あの花がそうなんじゃよ」
桃は昼間、老婆に連れられ裏の道を下りて行った。
小道から途中獣道に分け入り、沢を渡り、しばらく行くと見たことのないようなきれいな花が三輪咲いていた。桃は老婆に教えられた通り、沢から水を汲んでその花に与えた。これが桃の大切な仕事だと言われて。
「私が自分の生い立ちを人に話すのはこれが初めてで、そして最後になるさ。海が割れて死んだ母に会ったなどと言っても、だ〜れも信じやせん。だから誰にも言わなんだ。そしてあの花のことも。
あれは天国に咲いていた幸せの花だとわしは思うとる。困っている人のことを思ってあの花を見つめると、不思議な光景が浮かぶのじゃ。
その通りのことをその困っている人に伝えると、その人は幸せになる。しかし、その時見つめた花はまるで役目を終えたかのように花を落とす。そしてまた新たに一輪の花が咲く頃に困り人が訪ねてくる。
これがわしの母から授かった大切な役目だと思って、今までやってきた。でも、もうわしも見ての通りの歳じゃ。子どももおらぬ。後を託せる人が欲しいとあの花に思いを伝えた。するとあんたら親子が訪ねてくる光景が浮かんだのじゃ。
でも、まだわしの花が咲いているということは、願いが完全には叶っていないということじゃろう。おそらく桃が一人前になった時がその時なのだ。
桃、わしが今日言った大切なこと、ちゃんと覚えているかい?」
「うん、毎日お花に沢の水をあげること、このお花のことと咲いている場所は絶対に誰にも言わないこと!」
「おお、よう覚えた。ほんに賢い子じゃ。あの場所は父さんにも言ってはダメだよ。お水をあげられるのも、花に話しかけられるのも、桃ひとりだけだからな」
雄一は言葉が出なかった。ただこの話を受け止めるのには時間がかかることだけはわかった。