天国に咲く花
山奥の老婆(四)
木下道子が、幼稚園からのお便りを読んでいるとメールが入ってきた。
武井雄一――
(ああ直美さんのご主人だわ)
もうあれから三年、道子の娘、奈々は今年から幼稚園に通っていた。
(桃ちゃんも大きくなったでしょうね。会いたいなあ)
そう思いながらメールを開いてみると、折り入って話したいことがあるので伺いたいと書いてあった。
次の休日、桃を連れて、雄一は道子の家を訪れた。最初ははにかんで互いの親の後ろに隠れていた桃と奈々だったが、そのうち仲良く遊び始めた。その頃合いを見計らって大人たちの話が始まった。
雄一は、今自分と桃が置かれている状況を事細かに話した。そして、いつか病院の屋上で聞いたあの話をもう一度真剣に聞いてみたいと申し出た。道子と聡は顔を見合わせ、聡の許可でも得たように道子が話し始めた。
「でも、私たちや友人の姉夫婦の困り事は子どもを授からないことで、武井さんのような複雑な相談とは違うからどうかしらね?」
そう前置きをしてあの時話した不思議な老婆の話や詳しい場所などを説明した。
雄一は踏み込んで訪ねた。
「具体的にはそのおばあさんは何をしろと言ったんですか?」
「それは……ごめんなさい、なぜか言いたくないの。ただ難しいことではなかったわ。それに、この話自体本当に誰にも話したくないの。
でも、困った人を助けたいと心から思った時、その人には話してあげたいと思う。本当に不思議よね」
すっかり仲良しになった桃と奈々を引き離すのに苦労して、帰りは思いの外遅くなってしまった。
でもこの前の帰り道とは違い、同じ暗闇でも、今夜は心の中に一筋の光明が見えるような気がした。
(もう行くしかない)
雄一は決心した。
翌朝の月曜日、会社に着くと、すぐに上司に一身上の都合で会社を辞めたい旨を伝えた。
栄転を辞したという噂はあっという間に社内に広がり、どこか他社から引き抜きがあったとか、愛娘のために転職を選んだとか、勝手な憶測を呼んだ。そんな雄一に、引き継ぎのため二週間が与えられ、めでたく円満退社することになった。
次に、母たちにその事を報告すると、腰を抜かさんばかりに驚いた。
「いったい何を考えているんだ!」
退院したばかりの父が怒鳴った。雄一はただ思うことがあり、桃とふたりで生きていきたいとだけ言って頭を下げた。
そんな説明では到底納得のいかない一雄と多恵子は代わる代わる説得を試みたが、それが無駄だとわかると、二人とも黙り込んでしまった。
「母さんには本当に申し訳なく思っているよ。桃をここまで育ててくれたのは母さんだよ。本当にありがとう……
いつかきっと桃とふたりで恩返しをさせてもらうからね」
泣き崩れる多恵子に桃がしがみついて、
「ばあばをいじめないで!」
と雄一を睨んだ。
あと一か所、報告する場所が残っていた。次の日曜日、これが最後の休日になるが、雄一は桃を連れて直美の墓参りに出かけた。郊外の墓苑は参る人もなくひっそりとしている。しばらく来られないと思い、念入りに墓掃除をして、花と線香を供えた。
「さあ、桃、ママにこんにちは、をして」
(ちゃんと桃と生きていくから心配いらないよ)
どこからか直美が微笑みかけているような安らぎを感じた。
その足で金田家の門をくぐり、先日の申し出を丁重に断った。
そして、桃とふたりで生きていく許しを乞うた。しばらく遠くに行くので桃を会わせられないことを詫び、落ち着いたら連絡する約束をした。たまにしか会うことのない悦子と桃の間では、多恵子の時の様な感情的な場面は避けられ、雄一は少し安堵した。
これで来週には仕事の引き継ぎも終わり、すべてに思いを残す事なく、出発できる。
いったいどこへ?
実は、雄一にもわからなかった。背水の陣を敷いてまで、あの不思議な老婆の元へ行こうとしている自分こそ不思議に思える。大切な愛娘の将来まで背負って。