天国に咲く花
山奥の老婆(三)
三年の月日が流れ、桃は三歳の春を迎えていた。
雄一は平日、母多恵子の元に桃を預け、金曜の夜に迎えに行き土日を共に過ごす――そしてまた月曜の朝早く、多恵子の所へ桃を送り届けるという暮らしを続けていた。
そんなある日、いつものように桃を引き取りに行った金曜の夜、多恵子がお茶を入れながらこんな話をし始めた。
「ねえ雄一、桃も三歳になって本当は今年から幼稚園に入れたんだけど、今の暮らしでは無理だろうと思ってね。でも、来年には入れてやらなければならないよ。こちらの幼稚園に通わすなら思い切ってこっちへ越して来たらどうだい? お前の部屋が空いているのだから」
雄一も頭のどこかにその事は常にひっかかっていた。いつまでもこんな不自然な暮らしを続けるわけにはいかない。
あの大変な時、とりあえずの急場しのぎの暮らしに追われることになったが、それをそのまま漫然と続けてしまっていた。
直美とふたりで選んで買った中古マンションも、今売ればローンと相殺できるだろう。実家に戻って暮らすのも、ここまで世話になってきた母への孝行になるかもしれない。
女の子も三歳となると、もう大人のような口をきく。桃と話していると、時に直美がそこにいるような錯覚に捉われることもあった。そういえば仕草や表情が、直美に似てきたような気もする。こうして、この週末はいつもと違い感慨深く娘との時を過ごした。
ところが週が明け、いつものように出社した雄一に思いもかけない出来事が待っていた。近く雄一の会社がある中小生保と合併するという話は知っていた。ところがそれに伴い、雄一に福岡支社の営業部次長の辞令が内々に出たと上司が告げたのだ。事実上の栄転であるが、福岡とは……
そして、時として人生の岐路というものは複雑に絡み合うことがある。父、一雄が軽い脳梗塞で倒れて入院してしまったのだ。桃を連れて病院通いをする母に、雄一は重い口調で転勤の話を打ち明けた。
すると多恵子は、笑顔でこう言った。
「栄転だろう、おめでとう。よかったね。
桃のことは預かるから安心して行っておいで。それから今日、直美さんのご両親がお見舞いに来てくれたよ。誰から聞いたんだろうね、心配かけないように知らせなかったのだけど」
直美の両親、金田孝と悦子の所へは、時々桃を連れて顔を見せに行っていた。見舞いの礼を兼ねて来週にでも行かなければならないだろう。直美の三回忌も終わったので、自然に顔を合わす機会も減ってきていた。
どんよりと曇った次の日曜日、雄一は桃を連れて金田家を訪ねた。金田夫妻はかわいい孫の訪問をたいそう喜んだ。
「また大きくなったんじゃない! ますます直美の小さい頃に似てきたわねえ」
菓子とジュースを孫に勧め、おいしそうにその菓子をほおばる桃を二人は目を細めて見ている。
父への見舞いの礼を言い、ちょうどいい機会なので、福岡転勤の報告をした。しばらく来られないということを暗にわかってほしかったからである。それが雄一にとって大変な事態になろうとも思わずに――
話を聞いた夫妻は急に黙り込み、しばらくおいて孝が口を開いた。
「雄一君、前から話そうと思っていたのだが、桃を私どもで育てさせてもらえないだろうか?
武井のお父さんが倒れられて今は入院されているが、退院されてからの方がお母さんは大変なのではないかな? 先日病院でお会いした時にも、お母さんはだいぶお疲れのようで顔色も悪かったし。その上、桃の世話では今度はお母さんが倒れかねない」
その日は、考えさせてもらう、ということで引き揚げてきたが、桃の手を引いて歩く帰り道、曇り空だった空はもう暗闇に包まれ、その光景は雄一の心の奥深くまで広がっていく様だった。