天国に咲く花
山奥の老婆(二)
住宅街の中に建つ中層マンションの一室で、武井直美は入院の準備をしていた。今にもはち切れそうなお腹を抱えながらも心は期待にあふれている。大手生命保険会社に勤める夫、雄一もここのところ、早めに帰宅するようになっていた。初めての我が子の誕生が近づいているからだ。
ふと、パジャマをたたむ直美の手が止まった。次の瞬間、強烈な痛みが直美を襲った。それは母親教室で習った陣痛の痛みなどではない。尋常でない事態が起こっていると咄嗟に感じた直美は、必死に近くにある携帯電話に手を伸ばした。しかし、開いたところで意識を失ってしまった。
雄一は帰りの電車の中で上機嫌だった。直美とお腹の子どもが心配でここのところ夜の誘いは断っていたが、今日は高校時代からの親友、坂井が結婚の報告があるというので、婚約者と三人で久しぶりの酒席に付いた。なり染からいろいろ聞かされ場も盛り上がったが、直美が気になる雄一は二人を残し、一足先に家路についた。
マンションに着き、ロビーの郵便受けを開けると郵便物に混じって、ベビーカーのチラシが目についた。
(ナイスタイミングだな)
と思わずほころぶ口元で鼻歌を歌いながら、部屋のチャイムを押した。が応答がない。一瞬にして酔いが冷めるような嫌な予感がした。慌てて鍵を開けて中に入ると、居間で直美が倒れている姿が目に飛び込んできた。それから先の事はもう覚えていない。とにかく今はこうして病院の冷たい廊下の長椅子に座り、手術中のランプを見つめている。
(直美は、赤ん坊は助かるのだろうか? ふたりにもしものことがあったら……)
どうして今日に限って早く帰らなかったのだろう、早く帰っていればこんなことにならなかったかもしれない、という考えが螺旋階段のように果てしなく頭の中を巡っていた。
翌朝、スヤスヤと眠る赤ん坊の傍らで五人は疲れ切った表情で座っていた。直美と雄一のそれぞれの両親、そして頭を抱え込んだ雄一だった。昨夜、あのまま直美は助からなかった。赤ん坊を残してあっけなく逝ってしまった。この現実を雄一はどうしても受け入れることが出来ない。
もう少し発見が早かったら助かったのだろうか、と考えずにいられなかったが、怖くて医者に聞けなかった。
親たちは携帯電話を握って倒れていたのだから連絡さえできていたら、と悔やみ、赤ちゃんのためにもお前がしっかりしなければいけないと口々に諭した。
正直、今の雄一は直美を失った喪失感で育児の方まで頭が回らない。直美あっての赤ん坊なのである。とはいえ、直美がこの世に、自分に残して行ってくれた小さな命、うな垂れてばかりはいられないということを当然雄一もわかっていた。
「桃」と名付けられた雄一の長女は、一週間ほど入院することになった。その間に母親になるはずだった直美は、親戚や友人に惜しまれつつ天国へと見送られた。事情を知っている人ばかりだったので、落胆する雄一の姿は皆の涙を誘った。
桃が退院する日、雄一は病院の屋上で活気づく街の様子を何とはなしに眺めていた。しかし心はここにはなかった。当面は母が手伝いに来てくれることになっているが、桃とふたりで生きていく自信などそう簡単に持てるものではない。
そんな物思いにふけっていた時だった。いきなり後ろから声をかけられた。驚いて振り向くと、ひとりの女性がいつの間にか近くに来ていた。
「武井さんですよね? 私、木下道子と言います。奥様は突然の事で何と言ったらいいのか……
奥様の直美さんとは検診で何度かお会いして、母親教室でもご一緒させていただきました。予定日も同じということで出産後も仲良くしていただこうと楽しみにしていましたのに。本当に残念です……」
「それはどうも――」
「あのー差し出がましいようですが、何かお役に立てればと思いまして。もちろんこのような状況で、私などが出る幕ではないのはよくわかっています。でも、毎日桃ちゃんの所へ来られるご主人の様子がとても気になって、先程も屋上に上がられる姿を見てついてきてしまいました」
(お節介なことだ)
と思いつつも
「それはどうもご心配をおかけしました」
と丁重に答えた。
「あのーお時間まだ大丈夫でしたら、少しお話したいことがあるのですが――」
立ち直る様子のない雄一の姿に心を痛め、桃のためにもと思い、道子は自分たちが子どもを授かった経緯、山奥の老婆の不思議な力の話を語り始めた。