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天国に咲く花

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桃と天国の花(三)


 母が亡くなってこの一年、奈津美は大好きな母のためにがんばって代わりを務めてきた。それが、母が一番喜んでくれることだと思って。
 そんなある日、奈津美はふだんは使っていない戸棚の奥深くにしまってある、母の遺品らしき物を見つけた。それは色あせた古い花柄のケースだった。恐る恐る開けてみると、いきなり見ず知らずの男性と若き日の母のツーショット写真が現れた。そして、その下には小さな日記帳が収まっていた。
 
   * * * * * *
 
 十五年前、健太の父は単身赴任で三年ほど京都にいた。まだ乳飲み子の健太を抱えていた母は家に残った。そして月に一度、単身赴任先の父の元へ通っていた。
 ある日、父の赴任先からの帰り道、京都から自宅へ帰る途中、乗っていた列車が架線事故で駅と駅の間で止まってしまった。すぐに動き出すかと思われたがなかなか復旧しない。空調の止まった車内は、人いきれでムンムンしだした。すると、おとなしく眠っていた健太も目を覚まし大声で泣き始めた。周りの乗客がイライラするのを肌で感じた母はその場にいたたまれず、健太を抱え周囲に頭を下げながら通路を歩き、連結スペースに出た。
 それでも泣き止まない健太に途方に暮れていた時だった。近くにいたひとりの男性がひょいと健太を抱き上げ、高い高いをしてあやしてくれた。すると健太は一転、声をたてて笑い始めた。母はやっと安堵でき、感謝のまなざしでふたりの様子を見つめていた。
 その男と、巻き込まれた事故の状況などの世間話をしていると、苦痛であるはずの足止め時間もあっという間に過ぎていった。そして、乗客は最寄駅まで線路上を歩くようにとのアナウンスが流れた。健太を抱いた男に続き、母は男と自分の荷物を持って近くの駅まで一緒に歩いた。足元が悪く、歩きにくい線路の上を歩く母を気遣うことも、男は忘れなかった。
 駅に着き、この人がいなかったら健太を抱いて私はどうしていただろうと思い、母は心から礼を言った。サラリーマン風の長身の男は、ただ笑顔を向けただけで名前も名乗らず去って行った。
 
 翌月、また父の赴任先を訪れる日がやってきた。その帰りの車中で、無意識にあの時の男性を探してしまう自分に母は戸惑っていた。しかし、あの時の男に出会うことのないまま半年がたち、やっとあの男のことが頭から消えかけた頃、再会の時は突然やってきた。
 その日母は、実家の両親が健太を見ていてくれると言うので、ひとり京都行の列車に乗っていた。京都の手前の駅で停車した列車の窓から、ホームを行き交う人たちを何気なく眺めていた時だった。母は、ホームを歩くひとりの男性に目が止まった。間違いない! あの時の人だ!
 母は鞄を取ると列車を駆け降り、男が歩いていた方向に向かって走りだした。だが、人波の中にすでにその姿は消えていた。近くの階段を駆け下り、息を切らし、人をかき分け、あちこち探しまわった。しかし、どこにもその姿を見つけることはできなかった。
 この自分の信じられない行動を、ただこの前のお礼を言いたかっただけだと思いたかったが、それには無理があることは自分でもわかっていた。
(私はこの日を待っていたんだわ。あの時のあの人の優しさ、楽しいひとときがやっぱり忘れられない。そしてたまたま、健太を置いて来た時に見かけるなんて、神様のいたずら? せっかくの機会、ひと言でも話がしたかった…… でもこれでよかったんだわ、そうよ、これでよかったのよ……)
 そう自分に言い聞かせ、次の京都行は何時かしら、と時刻掲示板を見上げたその時、掲示板の先にあの人の姿が飛び込んできた! そして向こうも気づいたようで、こちらをじっと見つめている。母の耳からあたりの雑踏の音は消え、この世界に存在するのは自分とあの男性だけ――その時母はたしかにそう感じた。そして、互いに吸い寄せられるように再会の時を迎えた。
 
 翌朝、駅にほど近いホテルのロビーで、ふたりはコーヒーを飲んでいた。向かい合って座る男は、もう見知らぬ男ではなくなっていた。
 昨日あの後、ふたりはお茶を飲み、そしてどちらからともなくホテルへ向かった。夫には、健太が急に熱を出して今日は行かれなくなった、と連絡を入れた。初めてついた嘘だった。
 前回会った時に子どもを抱いていたのだから、当然人妻であろうことは男も承知していたはずだし、母の方も、男の身なり振る舞いから妻帯者であることはわかっていた。そのため互いに連絡先を聞くことはなかった。
 行きずり…… それが互いの配偶者へのせめてもの詫びだったから。たまたま通りがかった人に頼んで、写真を一枚撮ってもらった。そしてふたりは、互いの名前も告げずにその場で別れた。
 
 それ以降、母は京都へ行く時は必ず健太を連れて行った。
 また、もしあの人に会ってしまったら―― そして、その時またひとりだったら―― きっと取り返しのつかないことになる。もう元へは戻れない、偶然が必然に変わる、そんな気がした。
 しかし、母は二度とあの男に出会うことのないまま、父の単身赴任は終わった。それからほどなく、母は妊娠していることが分かった。そして奈津美が生まれた。
 母はこの出来事を詳細に書き残していた。それを奈津美が見つけてしまった、それがことの顛末だった
 
作品名:天国に咲く花 作家名:鏡湖