短編集14(過去作品)
秀樹は真剣に考える。そういえば、泰代に関して秀樹はほとんど何も知らなかった。過去のことを話したがらない女性というのは今までにも付き合ったことがあるが、泰代ほど寂しい表情をする女性に出会ったことがない。それは、過去のことを知りたいと思うことに対し、触れられたくないと感じているのとは少し違うように感じる。どちらかというとまるで秀樹がすべてのことを知っているのに、なぜ気付かないのかと言いたげな目に見えてくる。訴えているように見えるのは、そんな気持ちが滲み出ているからかも知れない。
泰代も秀樹のことは何も知らないはずなのだが、時々すべてを見透かされているようで怖い時がある。そんな時は目の色が違っている。黒い瞳の部分が光っていて、少し黄色掛かって見えるのだが、それは秀樹が鬱病に掛かった時に見える黄色のような気がして、ドキッとしてしまう。
――ヘビに睨まれたカエル――
そんな言葉がピッタリ嵌まるようで、気がつけば背中にじっとりと汗を掻いている。
だが、それは決して不快感ではない。会いたかった人に出会えたような懐かしさを感じることができ、包まれたような気持ちになるのだが、包み込んでいるのは秀樹自身ではなく、秀樹の中にいるもう一人の自分なのだ。もう一人の自分には意志がなく、感じることができるだけだと思うのは気のせいだろうか?
――泰代と付き合いはじめてどれくらい経ったのだろう?
何度も繰り返し考えている秀樹だった。自然な付き合いだったので、考えたこともなかったはずなのだが、最近はことに気になってしまう。
――まるでずっと昔から知っていたような気がする――
それも、秀樹の幼少の頃の記憶に泰代が現われてくるのだ。同じ人であるはずはないのだが、もし秀樹が泰代のどこが一番好きなのかと聞かれると、きっと、
「懐かしさを感じるところ」
と答えるだろう。
夢から完全に覚め、身体を起こすことができるようになった秀樹は、気持ちよく寝息を立てている泰代を横目に、とりあえずトイレへと立った。戻ってくる時に無意識ではあるが、部屋の中をゆっくりと見渡していた。さすがに女性の部屋である。酔いが覚めてあらためて見渡すと、実に綺麗に片付けられている。それは荷物が少ないというわけではなく、いろいろあるものがすべて綺麗に配置され、まるでいくつものオブジェに囲まれているかのような芸術的な部屋に見えてしまうからだ。
確かに泰代には芸術家的なところを感じていた。言葉の比喩にしても文学的なものを感じ、街を歩いていて時々宣伝広告を書いた看板に見とれていることもあった。その時の目は輝いていて、その顔を見ながら看板を見ると、実に品のある宣伝に見えるから不思議だった。
洒落たグラスカウンターの上にはいくつかの写真が飾られていた。そこには泰代ともう一人、男の人が仲良く写っている。
――泰代はこの男を私の後ろに見ていたのだろうか?
普通なら嫉妬の炎が燃え上がるところである。泰代という女性は秀樹にとって、嫉妬して余りあるだけの存在になりつつあったからだ。しかしなぜか秀樹の中に嫉妬心はない。泰代がなぜこの写真を直すこともなくここに飾ったままにしているかということにも興味があった。
秀樹がこの部屋に来ることは分かっていたはずだ。以前来た時には気がつかなかった写真である。それだけまわりのことを気にしているつもりでも、泰代に一人に集中していたに違いない。
それにしても実に仲むつまじく写っている。だが、怒りがこみ上げてこないのは、それが過去の写真であることを秀樹が分かっているからかも知れない。
何枚かの写真を飾った写真立てが置いてある。その中の一つに秀樹の目は釘付けになってしまった。そこに写っているのを見て、
――もう一人の自分――
写っているのは先ほどの男性と仲良く写っているだけの泰代だった。どこが先ほどと違うというのだろう?
泰代のお腹を集中して見ているような気がする。何となく心臓の鼓動が聞こえてきそうで、それが自分のなのか、写真の中からなのか最初は分からなかった。どうやら、まったく同じ感覚で聞こえているようで、音がダブッて聞こえるのだ。
少し大きさが目立っているように見える泰代のお腹、どうやら子供がいることは間違いないようだ。男の秀樹にも分かるようで、先ほどまでの写真の泰代とは明らかに違った笑顔である。
顔には余裕が感じられた。だが、余裕だけではなく不安もあるようで、それはきっと秀樹にしか分からない感覚であろう。
――母親の顔になってるんだ――
今まで泰代には妖艶な部分と何かもう一つ惹き付けられる部分があることを感じていたが、それが母親のような包容力のある雰囲気だったのだと、今さらながらに感じている。
秀樹は今、自分の母親の顔を思い浮かべようとしている。いつもであればすぐに思い浮かぶはずの母親の顔が今に限って思い出すことができない。おぼろげに浮かんでくる顔が写真の中の泰代であった。
そんな時、もう一人の自分が出てくるのに、秀樹は気づいていた。いつもであればもう一人の自分が出てきた時、今の秀樹は頭の奥に封印され、一緒に表に出ていることはありえなかったが、今の秀樹が隠れているような感じは受けない。まるで、隠れようとするのをもう一人の自分が阻止しているかのようだった。
「あなたもここにいてください」
もう一人の自分が語りかける。
「あなたは一体?」
「私はその写真の中にいるのですよ。お腹の中にね」
またしても、泰代のお腹から目が離せなくなっている。
「生まれて来れなかったんですよ……」
呟くような声が耳鳴りのように響く。明らかにもう一人の自分のささやきである。
もう一人の私は泰代の生まれてくるはずだった子供の生まれ変わりなのかも知れない。秀樹が泰代に惹かれたのも無理のないことだ。
秀樹自身は男として泰代を愛しているのだが、それ以外に惹かれているのがなぜか、今分かったのだ。
――もう一人の自分――
それが秀樹の中で成長し、泰代に会うために、引き合わせた。それは実に運命的な出会いであり、秀樹と泰代の永遠の愛を約束しているかのようだった……。
( 完 )
作品名:短編集14(過去作品) 作家名:森本晃次